2011年5月18日水曜日

蛇を考える

旧約時代に於いては選ばれた者だけが霊界の高みに昇ることを許された。彼らは蛇と呼ばれた。ヨハネ3:14に、モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない、とある。蛇を上げるとは蛇と呼ばれた者達のように、霊界の高みに昇り霊界を見ることができる人々に高める、と解釈できる。モーセは青銅の蛇を掲げて、それを見上げる民を旧約の救い、即ち霊形体の霊人体へ導き、イエス様の民は十字架に掲げられた人の子を見上げ、信じるものを新約の救い、即ち生命体の霊人体へ導いた。不信に陥るイスラエルの民に神は火の蛇を送られる。恐れる民に火に焼けない青銅の蛇をもって生かしてくださった。火の蛇は堕落させた昔の蛇を象徴し、青銅の蛇は天の蛇としてこられるイエス様を象徴している。蛇と聞くと生理的に受け付けず忌み嫌う感情に落ち込んで、永久に愛でる対象にはなりえないと思うけれど、それは堕落によって感情魂に刻み込まれたものが受け継がれてきて、その結実である私がそう感じているのかも知れない。堕落の張本人も蛇と表わされ、救いをもたらす存在も蛇と表わされるところに、罪や救い、堕落や復活への認識の、私の幻想を破る鍵があるのかも知れない。私の妻は蛇を含む爬虫類も嫌うけれど、虫という虫をことごとく嫌う。飛び交うものも這うものもとにかく嫌う。異常と思えるほどの嫌い様を眺めていると、そのことごとく排斥する感情在り様を柔らかくして、もう少し寛容になれれば、もっと楽に生活でき、もっとガチガチの身体も柔軟になるだろうにと思えるし、そういった排斥感情がますます病を作り出しているように感じるときもある。隠されていて見えない深層心理に、人間の本質の秘密が隠されている。情交という言葉には蛇が絡む姿が思い浮かべられるが、不倫であればそうであって夫婦間であれば何か別の姿であると言えるだろうか。堕落人間は蛇と聞くと、堕落の蛇のイメージは付き纏って消え去らないが、では天の蛇のイメージは受け取っているかというとそれもない。狡猾であれば堕落の蛇だが、叡智を備えればそれは天の蛇の在り様とは言えないだろうか。私達は忌み嫌って蛇という言葉すら私の中から取り除こうとするけれど、イエス様の言葉は天の蛇の言葉であり、御父様の昔の御名前には龍という文字すら入っている。御父様の揮毫された書を見れば天の蛇である龍が私の中に想起される。民族霊や大天使が龍の有り様で霊界に存在しているのを何かの本で読んだことがあるが、その存在を尋ねて霊界に足を踏み入れようとするなら、霊視者である蛇に私がならなければならないのだろう。魚に長く携わってきたので土用の丑の日ともなると一生懸命鰻をさばいたものだが、一見すると蛇と酷似している鰻を気持ち悪いと思ったことはただの一度も無い。その内面に於ける受け取り方の違いは何なんだろう。

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