2011年5月17日火曜日

今日の想い 307

空を見る限り明るく日も照っており、雨が降りそうな様子は少しも伺えなかった。しかし買い物を済まして店を出ようとした時、日差しは差しながらも大粒の雨がしっかり降っていた。直ぐに止むかとも思ったが駐車している場所まで走り、買い物袋を急いで車の後ろに押し込むと、明るい内に行けるところまで行こうと思ってハンドルを握った。西に傾きかけた太陽から日差しが入り込んで来て、眩しいくらい明るいけれど、雨雲が去らない為か雨は降り続く。狐の嫁入りは長くは続かないものだが、日が差して明るいので今にも止みそうなのに一向に止まない。雨筋が日に照らされて光り、光りのすだれを分け入って車を走らせる。雨の日の運転は雨雲のせいで視界も悪く疲れるものだが、光る雨のすだれの中を運転するのはこんなにも楽しい。子供の頃に夕立に打たれてはしゃいだ、同じ気分が蘇る。それなりの年恰好になっても、感情の記憶として残っているものは半世紀を越えても何の陰りもなくプレイされる。感情魂という媒体がスーパーコンピューターを優に超える記憶を保持している。霊界の入り口で、魂に刻まれた人生の全ての記憶が解き放たれてプレイされるのを誰もが経験する。記憶として残っているものが偶然の連続の中でランダムに刻まれたものだという認識があるだろうけれど、感情を伴う記憶のひとつひとつは、偶然でもなくランダムでもなく、生きることの意味をどう捉えるか、何を信じ何を思考、感情、意思の基としているかで受け取る記憶を選んでいる。同じ状況、同じ風景の中に置かれても記憶はひとりひとりで皆違う。日の光が強く差し込みながらも雨はますます激しくなり、私の感情も高揚してくる。車が跳ね上げる水煙と、雨脚が飛び跳ねる激しい動きに、普段は動きのないものとして受け取る光が踊っている。激しく光が踊っている。光が歌い踊るのを受け取ることができる、そういう時代圏に入っているのかも知れない。

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