2011年7月31日日曜日

今日の想い 349

私自身がそうであり、おそらく多くの日本食口もそうだろうと思うのは、信仰を恐れの感情下に置くきらいがある。さらに言えば、信仰に自分の意志責任を持ちこみたくない。それは多分に隷属的なものになりやすいということだ。恐れの感情から自分の意志責任を放棄し隷属的な私になるというのと、絶対信仰から自分の意志を差出し絶対服従を供えるのとは似て非なるものだ。日本での歩みを振り返ってみると、中心から下りてくる指示や言動や態度の中に、既に隷属的に受け取ることを当然とするものが含まれていたのは事実だろう。しかし私達が復帰された時点で信仰の本質を備えられるステージにいたかと言うとそれはない。だからそういう期間を通過せざるを得なかったと言うことはできるし、それが僕の僕や僕のステージだと言えるのかも知れない。全財産を差出し更に出来る限りの借金までして支えることを、願いに応えたいという想いから自分の意志責任として行動する食口も少なからずいるだろう。とにかく言われるままに献金すべきであり献金ありきだという断定や方法論は別として、御父様もその高い基準に相対しようとされるだろうし、それが母の国としての姿として見ておられるはずだ。でも下に目をやると多くの者は付いて行けずに取り残され、取り残された者としての様々な感情が渦巻いている。その感情熱が体制や責任者や、果ては御家庭や御父様やみ言葉にまで対象範囲を広げて検証し更に批判している。それは光の当たる部分と影の部分が分かれてきたと言えるようだ。光が強くなればなるほど影は濃くなる。しかし必ず影が消える時を迎える。それは正午定着の位置に来た時だ。私の中の良心(良神)が正午定着の位置にくると私の中の影の部分が消え去るように、全体でその位置を迎える。今の時点では光が当たる部分は影の部分があることを認めざるを得ないだろう。無視することはできない。表裏一体であれば影の部分から学んでこそ、正午定着の位置を正しく迎えることができる。反逆者、批判者として一蹴することは光の当たる己の位置を否定することにもなりかねない。一体化という意味を本質的に理解してひとつになれば、統一の群れは新たなステージに立てる。その過程で絶対信仰、絶対愛、絶対服従とひとつになる私を、誰もが取り戻せるはずだ。

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