2011年11月29日火曜日

書信について

御子女様からの書信がメールで届いた。全世界の兄弟達に自分の正当性を丁寧に、そして力強く説明されておられる。この書信を受け取ることで、一体私達に何を期待しておられるのだろうか。状況と言い分を説明されて、正しく把握することを私達に願い、そして私達がそれぞれに判断すべきだと仰りたいのだろうか。無知な私達に、どちらの言い分に正当性があるのか判断して欲しいと言う事だろうか。その文面からは御子女様のどこまでも真っ直ぐな在り様が伝わってくる。曲がったことを許されない、清濁併せ持つというようなものではなく、受け取られたみ言葉そのままを御自分にも宛がい、私たちにも宛がわれる。この堕落世界に於いてその姿勢を貫くということは、余りにも困難を極めることは容易に察せられ、報告を受ける毎に痛々しい心持になる。堕落世界がそうであるように、教会の中にも醜いものはある。腐ったものもある。やってきたことを白日に晒して堂々と説明できることばかりかと言うと、口をすぼめるようなことも多々あった。私が堕落人間であり醜いものを内面に宿していながら、それを棚に上げて置いて、位置に立つ責任者に対してだけ非を追求することは私には出来ない。報告に尾ひれが付いて現状報告とかけ離れ、御父様の顔色を伺うのを第一優先され、政治的な遣り取りや駆け引きが為され、教会の中でさえ綺麗事だけでは済まないことは、年数を重ねれば兄弟誰でもわかることだ。あまりにも無知で、その高度な書信の内容を十分に理解することは出来ないまでも、誰も、そして恐らく御父様であってもこの書信の間違いを指し示すことはできないだろう。しかし書かれたその文面から想像される歩まれるその先には、共産党の自己批判にも通じるイメージが見え隠れしている。あまりにも真っ直ぐだからそこに許しが見当たらない。もし、私達の多くがその御子女様の基準に近付いていたとしたら、そちらの方が本道になっていたかも知れない。しかし御父様はそちらの道を取られなかった。清流よりは濁流の中に、敢えて舳先を合わせられた。それは多くの失敗も重ねた、醜い私達の存在を見捨てられなかったと言うことだろう。御子女様に犠牲を払わせる形を取ることで、私達を保護されたと言うことだろう。

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