2012年9月2日日曜日

今日の想い 448

愛する妻や夫、愛する子供のひとりでも、病や事故で生死に関わる状態になった経験でもあれば、胸をえぐられるいろんな想いが押し寄せて、混乱して、まともに呼吸できる自分を取り戻すのさえも困難を来たすのを体験する。その体験もない不信仰な者達が暇に任せて御付への疑惑を詮索し、ああだこうだと言い募る。それは明らかに御父様や御家庭の気持ちの一欠けらも察することができず、自分なりの判断をする何の条件も基台もない傲慢な位置で、十字架上のイエス様に降りて来いと、周りの女達に降ろしてみろと、口々に言い合っているのに等しい。妻が手術を受けるとき、私はドクターに全てを託し、ドクターの判断を信じ、信じた自分を信じ、成功することをひたすら信じて見守っていた。その都度起こるいろんな事態に一瞬は混乱するとしても、私が信じることを止めたらその時点で妻の未来はないと言うことになる。御母様や御子女様、まわりの世話されておられる方々も同じはずだ。信じることを止めたら御父様の御復帰はないと思っておられるはずだ。その状態で、誰彼の申し出に不信を抱くとか判断がおかしいとかの余念を抱く余地などさらさらない。その切迫した状況も知らずに、裾野の遠い位置から見えもしない頂上をああだこうだというその気が知れない。狂っているとさえ思う。御父様を御父様と思うなら、先ず飛んで行きたい気持ちが自分の中にあるかどうかだ。それもないのに、御父様と口にはしながら、なんとその心情の距離がかけ離れていることか。幾星相の心情の距離を置きながら、その方を御父様と口にするのさえおこがましい。御父様を知らないほうがその人のためには良かったと、私はそう忠告したい。息さえもままならない御母様であり、御子女さまであり、そして勿論御近くで侍られる先生方もそうだ。食口達に変な動揺を覚えさせず、御父様と慕う祝福家庭の教会としての柱が揺らがぬようにとの判断が最初にはあったはずだが、食口達を信じて現状をはっきりと伝えられ、その上で、確信を備えた精誠を望まれたはずだ。御回復される為の祈りも、楽観的なものと確信的なものとは全く異なる。楽観的なものは何の心情の配慮もないが、確信的なものは、心配もし最悪も見せられ、心も削り胸さえもえぐって、それを乗り越えて敢えて御復帰の確信を抱いてこそ祈りであり精誠となる。私達は祈りも精誠も確信的なものとならなければならない。