2012年9月1日土曜日

今日の想い 447

御父様は寝ても意識を持たれて活動されることを、私は信じている。外界を対象とする地上的意識とは別物であるとしても、明らかな霊的意識を備えて、御体を休めておられる時も活動しておられる。だからたとえ麻酔で御体は眠っておられるとしても、やはり霊的意識は更に冴えて、この期間を活動しておられるはずだ。御父様がいつどのような状況、状態であられても、人間的な知情意では計り知れない、そのような見地では意表を突かれるような活動をされておられる。霊的意識を持たれているという意味は、霊的意志を働かせておられるという意味でもある。その御父様の霊的意志は天宙を動かそうとされる意志であり、世界動向に働きかけられる意志であり、勿論私達食口全体に働きかけられる意志でもある。ユダヤ民族が辿った道のりは目隠しされた神様が地上に運び込まれて、自分の失ったものを再び取り戻すために来た道を取って返す道でもあった。御父様はマタイ伝を新約の創世記と話されたことがあった。第一章の長々としたキリスト誕生までの系譜は地球が誕生して人類始祖が現れるまでの逆の経路を辿る逆創世記だとも言える。だからわざわざ系図を、アブラハムの子はイサク、その子はヤコブ、とはせずに、アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、と言うふうに逆向きに捉えられるように記されている。アブラハムからダビデまでが14代、ダビデからバビロン捕囚までが14代、バビロン捕囚からキリストまでが14代、計42代を通過してメシヤを迎えたわけだけれども、御父様が言われるように、奇数が主体で次の偶数が対象であれば14代は七数であり、七数七数七数の蘇生長成完成を経てメシヤを迎えたことになる。そしてイエス様御自信もユダヤ民族がダビデ王を通過したように王を経て、弟子達の信仰が足りなければバビロン捕囚を通過したように何らかの捕囚状態を経て、それから神様と完全一体される位置に上り詰められるはずであった。、、と言うのが私の一つの独断的見解だ。御父様が万王の王という言葉を使われるとき、私はどうしてもサウル、ダビデ、ソロモンの王国時代を意識されて使われているといつも思わされた。そうなると帰結の前に我々の精誠が足りなければ捕囚を通過しなければならないことになるが、そこまで私が勘ぐることは罪を犯す領域に入ることになるだろう。しかし私は、他がどう判断しようとも、御父様は意志して今の状態を通過されておられると確信している。そして必ず御健康を取り戻され、基元節をその御実体をもって迎えられると確信している。