2012年9月19日水曜日
今日の想い 457
やはり聖和式前後のこの時も、日本食口の状況は想像を超えていた。清平まで行って見た訳ではないが耳にした情報は、横たわる場所もなく寒空の下で横になっているとか、トイレでさえも横になる場所にしているだとか、若くない食口達ばかりだろうに兎に角すさまじい。徹夜祈祷の精誠に参加する食口も多いらしく、日本食口の基準に比べればアメリカやヨーロッパから参加した者は物見遊山に近い。そこまで言うと気分を害する者もいるだろうが事実そうだろう。私は御父様が聖和されて、そのまま天国に向かわれたとは思えない。イエス様が十字架につけられて、霊界に足を踏み入れられる前に先ず地獄の底の底に降りられて、そこで霊的戦いを勝利して超えられ、その条件で復活の摂理をされた。御父様も地上で、底辺の底辺の位置まで下っていかれ、監獄生活も何度も味わわれた。そして霊界に入られる前に先ず霊界とも言えない地獄の底を尋ねられるだろうし、そこで血を流すように心情を流され、地獄を整理されておられるように感じる。もしそうであるなら、霊界に送るのは乙女を結婚に送り出す以上の歓びをもって送るとは言うけれども、地上での様子を見聞きして知っている御父様の聖和に関する限り、自らを犠牲にされながら先ず地獄の救いを意志されて地獄の苦しみに身を置かれて、戦いの中にある御父様ではないかと思う。そんな御父様の事情を共にしたい子供であるなら、聖和されて間もないこの時、誰よりも苦労してこそ御父様に同参していることになる。13日に到着した私と妻は、明くる14日、御聖体にまみえる為に天正宮行きのバスの列に並んで3時間待ったが、やっとと言う時にカットされてしまい、待てども待てども流れない列に立ち続ける地獄から開放されて、天正宮を涙目で仰ぎ見ながら敬拝した。15日の聖和式に、寝る場所さへもない日本食口達が日が昇らないうちから表広場を埋め尽くして並んでいたが、緑の紋章を付けた私達は、そこに隙間道を開けてもらって1分の待ち時間もなく会場に入って席を貰った。中には待ち時間が長すぎて気分が悪そうな日本の食口もたくさん見受けられた。一体私の何が誇らしくて、暗い内から待ち続けている日本食口の間を葵の御紋よろしく紋章を付けてどうどうと入れるのだろうか。私はその会場への道はただ苦しいだけの道だった。またしても私は日本食口に対して大きな負債を抱えてしまった。そうなると、ただ私の体の不調と痛みだけが御父様と同参できる条件であり、この痛み、この苦痛、この不快さだけが私の誇りだと思えて痛みゆえにありがたかった。御父様が日本食口を愛される意味を、無言の視線を受け取る肌で感じていた。