2012年9月21日金曜日

今日の想い 458

私と妻は13日の夕方向うの空港に着いたし、あくる日延長して頂いた参観の列には加わったものの、3時間待って打ち止めされた。今回御父様にお会いした食口もいるだろうし、天正宮まで辿り着きはしても既に御写真だけだったという食口もいるだろう。そして私達のようにお会いすることも、御側に近付くこともできなかった食口もいる。お会いしたいと思って皆集まり、列に並ぶ訳だけれども、与えられた結果は結果としてそれぞれに良しとすべきだろう。私自身は、その場では会えないことが残念であったけれども、最後にお会いした時の御父様が元気でもあり叱り飛ばされる御父様で良かった。最後の御父様の映像が息もされず横になって動かれない御父様では、私の心魂の影はどこまでも尾を引いただろう。息を引取られた御父様の印象は、私にはきっと強すぎて、事ある毎にその印象が息を吹き返し、内面を一層暗いものにするだろう。だからお会いできなくて良かった。駆け付けて事実を確認しただけで十分だった。でも妻はどうしてもお会いしたかったようで幾分塞いでいた。同じ部屋に居合わせた先輩食口の、天正宮の近くでバスを降りてからの方が更に大変だったと言う話を一生懸命に伝えて、何とか納得させた。事実妻には体力的に無理だったろう。もし無理を強いてお会いできたとしても、後はダウンして身動きも取れず、聖和式も出発式も参加できなかっただろう。参加するものは一通り参加して、生きて帰ることができて良かったと思わなければならない。こうした私の人生の中で一番長い一週間は、帰ってみると半年過ごしたようでもあり、或いは一年近くも天正宮の麓を行ったり来たりしていたようでもある。浦島太郎のように、私だけが急いで年月を費やしていて、こちらに帰って一週間前の居場所に身を置いても、地上の現実のサイクルと噛み合わず、どうも足が地に着かない。やはり私には何かが抜けてしまっているようで、どう焦っても漲るものが湧いてこない。内的霊的な御父様を、未だ私の中には迎えられずにいる。