2012年9月23日日曜日

今日の想い 461

表面的にあらわれた事柄を見ながら、私たちの中に巣食うサタンの砦を見るのでなければ、私は霊的見地に立っているのではなく地上的であり外的であり表面的であり、それは信仰を重ねて来ながら未だに内的霊的な無知のままでいるということだ。あなた方の中で罪のない者が言葉すればいいと御父様に言われるとして、誰が言葉することができるだろうか。しかし自分にも勿論罪はあるが、位置と立場での影響は大きく、教会のことを思えばこその言葉は中心に対して口にすべきだと言い張るなら、それは例えばどんな言葉だろう。責任の所在をはっきりさせろと詰め寄ることに言葉を尽くすべきだろうか。混乱をもたらしたことに対する謝罪要求に言葉を尽くすべきだろうか。それで希望への道が指し示されるならそれもありかも知れないが、それは一時の鎮静剤で何にもならない。私達は今の現状をどのような内的霊的見地に立てば超えていくことができるだろうか。提示された現実がショッキングなために、その波風に翻弄されて自分の内的霊的な状況(位置)が把握できないでいる。先ず私達は心魂の異常な高まりを鎮めるために祈りの期間が必要だろう。そして私の内的霊的な状況、内的にどう捉えているのかの知の状況、どういう衝動にかられるのかの意の状況、そしてどんな感情が沸き起こるかの情の状況を瞑想祈祷しながら把握しなければならない。私達に働く神霊は、必ず私達の目指すべき内的霊的位置を指し示してくださる。指し示してくれるけれども先ず私の位置が把握できなければ、その願う位置への道のりは見えてはこないし、心魂の興奮からとても祈る状況にないと思うかも知れないが、こういうときこそ祈り尋ねるべきだ。私達は前線訓練を受けながら、事が差し迫り、覚悟し決意を迫られるその時の祈祷こそ祈りの力を実感してきた者達だ。私達の5%は祈り求めることだ。求めなければ神霊は訪ねてはこない。表面的には教会全体の問題であるけれども、私達ひとりひとりがサタンからその試験を受けるべく剣先を向けられている。前にも触れたように、全てはリンクしていて全体の問題も私の問題であることは間違いない。中心の責任だ、子女様の責任だと言い続ければ堕落的私は自分の責任に蓋を被せて気分がいいだろう。しかし内的霊的自分の本質が見えたときに、或いは死んで霊的本質になったときに、あの時にサタンに鷲掴みにされている部分を清算すべきだったと、地を叩いて後悔するときが必ずくる。超えられない試練を神様は与えられないし、超えられないサタンの試験を神様は許可しない。