2012年9月25日火曜日
今こそ責任分担に立つ
私は後ろばかりを見ているだろうか、或いは前だろうか。状況の説明を受け、納得できなければ立ち止まったままで前に進めないと言うのであれば、それは後ろ向きに後ろを見ながら、前進する摂理とは逆向きに存在しているということだ。私達は過去に対する蕩減法を宛がわれて現在の私の位置や環境、状況が与えられているのであり、未来に向いては責任分担を願われてやはり現在の私の位置や環境、状況に立っている。食べて寝て行って来る人類共通の生活形態でありながら、この世の生活と我々の生活の何処が異なるのかと言えば、私達は蕩減法と責任分担を知っていて、5%が何かを思考し意志しながら生活しているという、外的には同じ生活形態でありながら天地の違いがその責任分担の認識にある。摂理が立ち止まることなく前進し続けるように、私達は責任分担を意志しながら前進し続ける。私の位置や環境、状況に対して不満を募らせ、納得できないまま責任分担への意志を差し出せないなら、摂理の願い、御父様の願いからずれていく。今は、中心者がどうだ御子女様がどうだと、自分の意識の矛先をばら撒いている場合じゃない。状況はその通りに受け入れながら、しかし自分なりの判断や感情は持ち込まず、状況に対して私は何をすべきか、何が願いかという責任分担の視点で意志を働かせてこそ私は前進できる。責任分担という言葉は、歴史的に誰も紐解けなかった不可解な人生に答えを指し示す、御父様の歴史的天宙的一大発見だ。私たちはみ言葉の重要性を何となくは理解しているけれど、生活に根差した、生活に刻み込むものとしてのみ言葉の価値をわかってはいない。責任分担あってこその自由であり、希望であり、創造であり、神の祝福であることを、生きる上でひと時も忘れるべきではない。私の前には責任分担がある。責任分担を通して私は前進できる。