2012年9月19日水曜日

今日の想い 456

宿泊所でも何か浮いた気分が漂っていて、弔いに駆け付けた者達だとはとても思えなかった。懐かしく出会った食口もいるのだろう、あちこちで談笑の花が咲いていて、何の遠慮もなく高笑いがこだましていた。久しぶりに会えばお互いの状況も知りたいだろうが、感情に流されるまま行動して何の負債も覚えないのだろうか。まだ何もわからない赤子が、母親が死んだことも分からずに弔問客に愛想を振りまいていると言えば涙を誘うシーンだが、それ相応の年恰好で未だに赤子かと言う事になると、溜息しか漏れない。御父様が聖和されたことの現実もその意味も、誰も噛み締めてはいないようだし祈り求めて探っているようでもない。お互いの様子を語らう合間に少しだけ話に上ると、口ではこれから大変だ、これから困難な状況が待っていると言いながら、皆の内なる気分は、これからも私と私の周りは何も変わらず、変わらない毎日の生活の繰り返しが待っているだけだという気分で落ち着き払っている。勿論私もその要素を持っていて、ついつい声をかけるし話せば笑顔だって見せてしまう。しかし私のアボニムが亡くなられて駆け付けてきたのに、浮いた感情に任せてしまうのは、御父様との因縁を考えたとき一番危険な状態だと思っている。自分の中の何が罪であり、何を失い、どう復帰したらいいのか、皆それぞれが真剣に求めてきたはずだろうに、自分の内面のことを何ひとつ分かってはいないようだ。私の内面の魂は、御父様に繋がっているその接点では嘆き悲しんでいる。その接点の魂の叫びは、表面的な私に薄められ、埋められ、見えないようにされている。その見えないようにしているのが私に働くサタンだけれども、それも思ってはいない。少しでも霊に目覚めて感情がその接点に近い者であれば、御父様を失った魂の慟哭の想いを感情が受け取って、自分でも訳も分からず涙するだろう。