2012年9月20日木曜日
これからの信仰姿勢
御父様はもう地上の御父様ではなくなられた。御父様の存在を知らないときも知ってからも、私の人生で御父様が地上におられない世界を生きることはかつて経験がない。初めて御父様のおられない外的世界を歩むのであり、歩むその新しい世界、新しい天地は今始まったばかりだ。私達は御父様が地上におられる間にもっとしっかりと準備すべきだった。地上感覚で捉えた御父様だけを御父様として認識していたが、これからは霊的な御父様であられ、霊的感性で捉える御父様を生き生きと感じるほどにならなければならない。聖和されて間もない今は、記憶に残っている御父様を慕い侍っていて、地上におられるときと何ら変わらないように思っているが、外的な記憶は残像に過ぎない。残像はやがて時間の流れと共に色褪せていく。我々が準備不足であったことは否めないが、私の霊的感性を掘り起こし、即ちみ言葉に宿る御父様の心情を掴み取り、心情として活きて踊るものをありありと内包するようになることだ。掴み取った心情こそ御父様の残像ではない本質的な霊的御父様だ。これからは訓読生活がどれほど重要な意味を持つか。訓読も他の本を読み進めると同じようなものではなくて、み言葉に宿っている御父様の心情をみ言葉から染み出させて取り入れる、その霊的役事、霊的秘儀としての訓読を行えてこそ霊的御父様は私の中に住まわれる。私の中に住まわれる御父様こそがこれからの私を導いていくのであって、そして私の存在の在り様、私の意識の在り様がかつてとは180度異なっていると実感できる者とならなければ偽りであって、今までどれほど信仰を備えている人物であったと評価されていたとしても、この新しい180度異なる意識を備えなければ、今までの意識基準で残る者は先ずいないだろう。残ったとしても御父様の本質的願いから外れていくようになる。願いに合わせて進化していくべきなのが我々の宿命であり、認識も感情も意志も、意識も信仰もみ言葉認識さへも、何一つ留まるものはない。御父様がこう言われたからこうだと言うなら、み言葉を塩漬けにしているのであり、訓読を供えて活きた心情として受け取る衝動や願いがこうだからと言えるのが、我々の進むべき在り様だろう。