2012年9月29日土曜日
今日の想い 463
御父様が聖和された今、私は御父様をどれだけ必要としているだろうか。言葉を話され見て聞いて喜怒哀楽を表現される実体の御父様を失った悲しさ、寂しさはあるとしても、それが時間を経て癒されてしまうなら、御父様の必要性をもなくなってしまうと言えるのだろうか。私達は実体の御父様を慕い侍ってきた。実体の御父様の感情の部分を推し量り、受け入れながら接してきたが、それは多分に人間的な接し方に終始してきたのかも知れない。再臨の救世主だと認識するとしても、自分の救いの必要性をどれだけ認識するかに応じて、救って下さる御父様を求めてきたはずだ。救いの必要がないか今までの歩みで消えてしまったなら、実体の御父様を失った悲しさ寂しさが癒えてしまえば、救いの御父様は私と共におられない。私が意志して能動的に求めない限り、御父様は私に訪ねて来られることはない。それが聖和され地上を離れて霊界に行かれた状況であり、地上に残された私達の立場だろう。私の中で生きて働かれる御父様を実感しようと思えば、やがて霊界から声をかけて下さるだろう、何かのしるしを示して下さるだろうと待っていても、2000年を待ったクリスチャンと何ら変わりなく、自己満足的な自分なりの御父様像を抱いていては難しい。待つことに安住する私ではなく、求めざるを得ない私であり、能動的に求めてこそ御父様は求めたものを携えて訪ねて下さるはずだ。聖和式も済ませて、それぞれがもといた場所に帰っていって、聖和される以前と何ら変わりない生活に没してしまう。そういう中で誰が御父様を求める衝動を自分の中に感じているだろうか。御生存の間は、或る意味打ち出される摂理に外的には翻弄され、それを形にする為に無理にでも内的に引き上げざるを得ないし御父様を求めざるを得なかった部分があるが、聖和された今、引き上げる力、求める力を私達は私の中に能動的に働かす必要がある。