2012年9月7日金曜日

今日の想い 452

霊界は地上的な時間感覚を超えている。WTのネットで御父様の生涯の御様子をフォトで綴っていたが、敢えて御写真を手繰らなくても、若かりし頃の御父様も、御歳を召されてからの御父様も、いろんな時のいろんな御父様が御名前の如く鮮明に蘇ってくる。御父様の表情もさることながら、それ以上に御父様の声が、耳に残っていると言うより腹の底から湧き出してくる。御世辞にも耳に優しい御声とは言えないが、ささくれ立って血の滲んだ、しゃがれてかすんだその御声は独特で、誰に似てるとも言えないし何にも譬えることはできない。しかしこの響きにこそ、御父様が御自身も御家庭も犠牲にされて公的生涯に殉ぜられた、その血と汗と涙の全てが刻まれている。痛々しい御心情が刻まれている。刻まれたものが余りに多く余りに重くて、御声の響きを受け止めるにも人を選ぶし、責任と覚悟を迫られる。私達は御父様の息子娘でありたいと思うなら、この響きの重たい波長に同調しなければ、その資格はないだろう。御父様は聖和されて、地上的な存在の形を持たない御父様になられた。それは地上的な時間と空間を超越された存在になられたと言うことだ。そしてその意味は、全ての時間と全ての空間、全ての存在に偏在される御父様だ。吹く風にも、流れる水にも、そして小さい石ころから岩という岩にも、御父様は偏在される。大気にも、浮かぶ雲や轟く雷や落ちる雨にも、そして大きくは地球にも太陽にも、勿論天宙に亘って御父様は偏在される。そのように外界に偏在される御父様がおられ、そして私の魂の中心の奥に、内在される御父様がおられる。内在される御父様は、やはりしゃがれてかすんだその御声で、私の魂を突き破るほどに叫び続けられる。御父様が聖和された今、私は私に内在される御父様から距離を置くことなど到底出来なくなってしまった。サタンに首根っこを捕まえられていた私は、今御父様に捕まえらるという一大変革が起こっている。