2012年9月21日金曜日
今日の想い 459
教会という組織に対して疑問を抱き疑惑が生まれ、御父様なき今は彼らを直接的に正せる言葉と口を失ってしまい、共産主義者がそうであったように、己の見解や判断を盲信したまま行き着くところまで行き着かなければ己の非を認めることはない。分かれた今、向こうが間違っておりこちらが正しいと反論するだけでは向こうと同じであり同じ土俵でいがみ合うしかないが、教会側は教会側として、御父様は私達の側についておられると言える為には、御父様と一体となっておられる御母様と如何にひとつになっていくかが重要な鍵になる。我々が御父様の願いをしっかり受け止めることができなかった結果が分離を産み出したように、御母様と如何にひとつになるかをこれから試されるのであり、それ次第では更なる分離が待っているかも知れない。共産主義者が現実性のないユートピアを描いてそれに酔い、それを追求するあまり愛や心情を蔑ろにしたように、彼らにもそれが認められるし、私達の中にも地上天国と現実性のないユートピアとを混同しがちな面を持ち合わせていて、御母様と一つになる為には常に私達自身の分別が必要になるだろう。御父様なき今、幼いまま甘えたままではいられない。曖昧で妥協した自分を赦して放任すれば放任する程、それに見合った霊を吸い寄せていく。知らないうちに集まった霊は堕落的己の保護圏となってますます自己中心的存在に墜ちて行くだろう。私達は御父様と共に歩む過程でそれなりの霊的感性を育まれてきた。霊的臭いを嗅ぎ分け霊的予知を感知する。私達は無の位置、祈りの境地で「御父様!」と呼びかけるに呼応する内的霊的知らせを御父様の願いとして受け取れる。より御父様とひとつになった者は御父様の衝動として内から突き上げるものさえも感じるだろう。その傾向はこれから益々強くなっていくはずだ。御母様と一つになれば御父様の存在感を御存命の時以上に実感する我々になるだろう。