2012年9月28日金曜日

今日の想い 462

昨晩は尾を引くような雷鳴が夜遅くまで鳴り止まなかった。今朝方訓読会を済ませて明るくなりかけた外に足を踏み出すと、湿りを帯びた草木が朝焼けの柔らかな光を受けて、微かなピンクを滲ませている。聖和式を終えて帰ってみると、ほんの数日を隔てただけなのに、雨模様の大気はすっかり秋の様相に代わっていて私を拒んでいるようで戸惑ったが、今朝の柔らかな大気に包まれてみるとやっと納得したようで、私も人心地がついたように思えた。自然は自然で御父様が聖和された事実を受け入れ、その為の期間をそれなりに要しているのかも知れない。力のないむせび泣くような昨夜の雷鳴も、ひとしきり泣き明かした後の放心したような今朝の静けさも、未だに霊性の乏しい私でさえも自然の中に感情をみるようで感じるものがある。彼らの主人を地上から霊界に移した今、これからの秋の深まりをどう自然は表現するのだろうか。全てを機械的に捉える科学万能の世の中で、物事も自然も人間の意識に沿うて機械的であらざるを得ない。自然に感情があると真顔で言えば笑われるけれども、機械的唯物的であらざるを得ない自然の、押し込まれて固く蓋をされた感情の部分を、み言葉を知った私達が解放せずに誰が解放するのだろうか。御父様が聖和された今こそ、自然も万物も堕落的封印を解かれて解放されるべきだ。堕落は人類の問題だけれども、人類に主管される万物存在も否応なしに影響を受け嘆息してきた。御父様の存在は彼らの解放をも握っておられたはずだが、御父様の聖和の事実が彼らの解放の願いにどう影響を与えどう応えるのか、それは御父様に繋がりみ言葉を知る私達の認識と意識にも依っているはずだ。私という存在は、私の救いだけでも家庭の救いだけでもなく、勿論氏族の救い世界の救いを背負った存在でもあり、天使世界の解放、鉱物植物動物という万物の解放さえも背負った存在でもある。御父様が常に公的位置に立たれて責任を持たれたように、私達はその責任を相続している。自由と責任がその両面で分かれることができないように、祝福を与った者はその責任をも与っている。私達は事情に揺れ動く者達であってはならず、揺らぐことのない神霊の柱を立てて御父様の精神を貫き通す。