2013年10月17日木曜日
今日の想い 644
恨みと恨(はん)の違いがわかるだろうか。簡単に言えば一方は自己中心的な情動であり、今一方は方向性をより公的に向けた情動だと説明すれば、理解の助けになるだろうか。恨みは深くすれば深くするほどより自己中心的になり、心魂はどこまでも凝縮して凝り固まる。一方恨(はん)は恨みと同じ情的衝動ではあるけれども強くすれば強くするほどより公的な力となり、心魂はどこまでも広がり拡散していく。恨みは根が深くなると不気味な静けさを漂わせるものだが、恨(はん)が強く働くと発散の力となり使命的な自分を表現するようになる。恨みを恨(はん)に向かわせようとする行動は、韓国ドラマを見れば度々見られるのであって、アイゴーアイゴーと叫びながら地を叩いたり胸を叩いたりしながら、恨みを自分の中に留めようとする力から拡散する力に変えている。日本人にすれば表現するのは恥であり口ごもり押さえ込もうとするけれども、韓国人が敢えて表現するのは情動を公にして天が取ることが出来る精誠に変えていくのであり、実に天の心情文化に近いものがある。恨みと恨(はん)がベクトルが異なるように、恐れと畏れ、怒りと義憤、卑屈と謙虚、尊大と傲慢それぞれの心魂活動も、そのベクトルが自己に向かうのか天に向かうのかの方向が異なっている。恨みは押さえ込むのではなく、表現もして素直に報告もしながら恨(はん)に向かわせる必要がある。恐れは自己中心的感情であり、自己に向かえば向かうほど恐れる対象を肥大化させてオバケ化させることになる。天を畏れるのは恐れてオバケ化した対象に恐々とする心魂の萎縮とは全く異なる。信仰の奥底に恐れがあって、それが動機となって意志する信仰の場合は絶対信仰にはならない。地獄が恐ろしくて、死が恐ろしくて信仰する場合、口では神様と言いながら実のところ恐れで操ろうとする別の霊的存在を立てている。日本食口は従順で、声を荒げたり怒りを表わしたりすることは非常に少ないが、血気怒気の衝動はまずいにしても、怒りを覚えなければ義憤に燃えることもない。
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