2013年10月19日土曜日

今日の想い 646

人間は本来、神と同じように創造する存在として造られたはずだ。既に備えられた過去の創造の恩恵に与るだけではなく、未来の創造を委ねられ未来を創造する存在だ。人間が過去の創造の恩恵に浴し、そこに留まるだけなら、未来の創造は誰に委ねるのだろうか。私はあくまで創造は内的原因的な創造のことをさすのであり、外的創造は内的原因的創造の結果だと見る。今の現実という結果は過去の内的創造を原因とする結果であって、未来の現実を変えようとするなら先ず内的創造に目を向ける必要がある。現実に対して外的には従わざるを得ないけれども、内的に翻弄される自分となるべきではない。何を持って内的創造をしていくか。それはみ言葉以外ない。み言葉をして私は創造をしているという実感を持てることが、み言葉を生命のみ言葉として受肉している証しだ。現実と言う結果世界だけに向かう虚ろな知情意だけでは、霊的に生きて新たな創造を為しているとは言えない。み言葉は現実世界に対処する処方箋ではなく、霊的に生きる者が新たな創造を為していく宇宙原則だ。天宙原理だ。地上での創造、というと創造性と表現されるように新しい発想を言うのであって、それは多分に思考創造に限られるのであり、感情を越えた心情創造であるとか、自己中心的意志の発動を越えたみ旨への意志創造であるとか、とはならない。地上天国を平和理想主義者が言うような、武器を持たず戦争せず、皆が平等で誰もが全ての地上的恩恵に与る世界だという同じようなイメージを持つとするなら、それは大きな誤解を抱えている。それは堕落人間が思っている地上天国であって、神様の願うそれとは異なる。極端なことを言うなら、たとえ戦争が起ころうが人間の階級的な世界になろうが、そこに神様の生きた心情が人々に流れ、み旨への意志に貫かれた人々になるなら、それは神様を無視して実の無い平和や平等が蔓延する今の世界に比べれば地上天国に遥かに近い。教会の責任者の華美な生活や、献金の使い方への疑惑を取り上げて非難轟々だけれども、共産党でも無かろうにどれだけ白昼夢的ユートピア主義にかぶれてしまっているのか、未だに本質を受け取れない、感情でものを言う食口がいることに幻滅する。発想自体も陳腐だけれども、外的に苦労し清貧に甘んじるのが食口の王道で、それでこそ真の愛がそこにあり神様の心情が流れていると思い込んでいる。心情を復帰するとあるが、復帰は再創造であり、再創造はみ言葉をして建て直すことだろう。堕落人間に備わっている感情は否定されてこそ心情の建て直しが始まる。この世の倫理観、道徳観が御父様を迫害し、御父様の路程を阻んできた事実をはっきりと認識すべきだ。私達に取ってこの世の倫理観、道徳観は時として牙を剥く怨讐だ。

0 件のコメント: