2013年10月29日火曜日

今日の想い 651

DCの近辺からなら、一時間もあればシェナンドア国立公園に着く。秋の紅葉で色づく山々を見渡したいなら、公園内にある山の尾根伝いを走るSKYLINE DRIVEという公園道路からの眺めが要望に応えてくれる。今日しかないと思い、妻と娘を連れ立って朝早く向かった。国立公園といっても20万エーカーの広さしかないから、アメリカでは最も小さい国立公園の一つだが、そうは言っても北の出発点から南の終着点まで走破すれば3時間にも渡り、往復するだけでも一日がかりだ。入り口のロイヤルフロントの小さな町に着くと、入り口のドライブスルーの料金所で入園料を払い、先ずは尾根に向けて300メートルの高低差を上っていく。一番高いところで標高1000メートル位だからなだらかな山が続いていて、山脈と名付けていいものかどうか、それでも一応アパラチア山脈だ。20分程度ドライブすると最初のビジターセンターまで行き、トイレで用を済まして折り返しただけだが、道すがら展望エリアがあちこちにあって、町を見下ろしたり山々を眺めたりするには十分だ。夏には何度も行ってロッジに泊まったことも一度あったが、秋に訪れるのは今回が初めてだ。この辺りは紅葉といっても黄色系が殆どで、目の覚めるような赤色は少なく、日本の紅葉と同じものを期待すると少し落胆するかも知れない。でも黄色系ならではの良さもあって、赤色に刺激を受ける驚きの色合いにはないものがあり、私は好きだ。落ち着いていて大人しい黄色に見入ろうとすれば、自ずと能動的態度を要求されるのであり、黄色を内面に満たすことで霊的な深みに入ることが出来る。それは赤色のように、受け取ることで直ぐに感情に昇るものではないが、受け取った黄色をよくよく消化することで見えてくるものがある。それは受け取るその場のことではなく、帰り道であったり、或いは数日経って見えてくる場合もある。色付いた秋の黄色を内面に暖めると、黄金色に輝いてくる。表面的な輝きは見えないにしても、霊的に見れば金色に輝いていて、秋の地上的な実りの種子に対して霊的な実りはこの金色の輝きだ。秋には霊達が地上に降りてきて金色の輝きを収穫する。霊的感性を持たない人間は残った枯葉に憂いを覚えるだけかも知れないが、実質は金色の輝きと共に霊達に収穫されて、次元を上げた新たな生命を生きるようになる。私達はみ言葉を通して為に生きる私であり、犠牲を供える私だということを知っているけれども、犠牲が憂いではなく喜びだという感覚はない。しかし犠牲は本来喜びだと認識するのが霊的に生きていることの証しだろう。人間として内面に燃えるものは、青年期の情熱的な赤色から壮年期を越えると黄色に代わる。金色の輝きを収穫する霊達との交わりが壮年期を過ぎる者達には訪れる。秋の本質、霊的な収穫の意味が理解できるようになる。私は私なりに収穫多く大満足だったが、妻と娘には何か物足りなかったようで、少し遠回りしてアウトレットモールに寄り道して埋め合わせ、陽の高いうちに帰ってきた。


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