2013年10月13日日曜日

今日の想い 641

献身生活に入ってほぼ100%、経済復帰の歩みに勤しんできた。伝道は献身するまでと、献身初期の青年部人事で少しかじっただけだ。そんな短い期間でありながら、伝道に集中し専念したという感覚はない。もちろん実りもない。正直なところ、自分が人生の問題に相当悩んで入教した手前、声をかけて人生の問題に関心がない人に勧めても難しいという思いがあった。外的な事を言えば教会生活、献身生活は決して楽なものではなかったから、勧めても結局恨まれるに違いないとも思った。悲観的で人間的な私は、この道を歩むのに最も相応しくない類の人種だったけれども、しがみ付いてでも残らなければ自分の救いは絶望的だという、ただその一点が最後の繋がった糸で、その切れそうな糸を頼りにここまでこれた。40年を越えて、これまで共に歩んだ食口の近況はわからない。縦に繋がることを徹底され、横に繋がることを否定されて来た面があるから、愛の兄弟関係とはならなかった実情がある。それがおかしいと言うのではなく、摂理として先ず縦的関係が優先されてきたのであり、縦的に立った食口を残すことを天は願ってきたはずだ。真の父母の勝利圏が立って新しい時代圏に入った今は、縦的に立った食口が横的に展開する伝道に入っている。もはや私達が訓練を受けてきたような、そんな厳しい路程に組み込まれる人材を復帰する必要は無い。それぞれの分野で、この世の者達が惹き付けられる秀でた天分を発揮しながら、それが真の父母の証しとなれれば来るなと言っても集まるようになるだろう。それでこそ環境創造だ。今までと同じように、この人は何もないけれど純粋さがあると言うだけで、どれだけの人を繋げて伝道できるだろうか。飛び込みや、片っ端から通りすがりの人に声をかける、或いは関係性を頼りに訪ねていく、そんな従来通りの伝道を否定する気持ちは毛頭ないが、もし一人の食口が一国の大統領にでもなれば、彼一人でどれだけの伝道実績が実るだろうかと考える必要がある。大統領でなくとも、芸術の分野でもいいだろうし経営の分野でもアカデミックな分野でも何でもいい。この天分を持つこの人は何者だろうかと思わせられれば、頭を下げてでもその本質を探りたいと集まってくるはずだ。従来通りの伝道であれ何であれ、真の父母を証しするのは教会ではなく私だ。私が内外でどれほど磨かれているか、どれほどの内外の魅了するものを持ち合わせているか、その私自身が鍵だ。賢い者は、この教会の混乱期の中で翻弄されるのではなく、時代を先取りしてその準備に余念が無い。

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