2013年10月2日水曜日
今日の想い 634
表面的に見るなら、いままでの献金摂理で謳った内容と、新たな恩恵の為の条件との間に整合性を図る必要があり、辻褄を合わせようとすれば「恩恵の確認」というような複雑なものになるのだろう。確かに辻褄を合わせて置かなければ、いままでの恩恵の為の献金摂理は何だったのかと言うことになる。それは表面的に見てそう勘繰るのであって、指示を与える責任者が辻褄を合せるにしても、その背後に流れる本質は確実にある。人間的で表面的な勘ぐりや嫌気の感情に屈しない、そういうひとつの絶対信仰を立てた位置で受け取れる恩恵は確実にある。物質的には同じものを一人は数万円で手に入れ、一人は数百万円で手に入れて、それが物資的なものに過ぎないなら憤るのかも知れないが、食口、とりわけ日本食口は唯物論的価値観を越えて心情価値観に立とうとしている。今までの献金摂理でもこれからもその姿勢は変わることは無い。受け取る物が恩恵ではなくて、物は象徴であって象徴の背後にある心情を受け取ることが恩恵だと言う確固とした絶対信仰に貫かれている。物なのか心情なのか、感情なのか心情なのか、そこが徹底されている。摂理を進めて行く統一神霊の願いにどこまでも着いて行こうとする日本食口であり、その精神性は他に類を見ない。恩恵に与ることがそれほどに経済的犠牲を払わなければならないという事と、手に入れる恩恵の価値を物資的なものから心情的価値という高みをとらえる事とは相通じ合う。しかし高みに昇ろうとすればするほど、置いて行かれる者も数多く、彼らは今までの報われない犠牲、清算されない犠牲への訴えと共に反動的になってしまう。しかしそれでも摂理を進め、天の願う勝利基準に到達する為には絶えざる犠牲が必要であり、そうやって一握りの勝利者が、置いて行かれた者皆の犠牲を抱えて条件となし、全体的勝利をも齎(もたら)すのであって、それで初めて置いて行かれた者の犠牲も報われる。この世の人にとっては盲目的に見える一般教会員であり、一般教会員にとっては更に盲目的に見える特別の者達がいる。しかし彼らこそが御父様の心情圏の中心位置に立つのであり、彼らこそが信仰のない私を恩恵の中に引き上げてくれる。霊的なものが明らかになるに従って、統一教会や食口も、異様にも見えた摂理も、その本質が見えてきて認識は大きく変わっていくはずだ。
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