2013年10月27日日曜日

今日の想い 649

御父様の生殖器への想い(敢えて想いとする)は特別なものがある。「宇宙の根本」のみ言葉を訓読すれば、生殖器という言葉のオンパレードが際限なく続く。私達の生殖器へのイメージは、それが聖なる器官というよりは、私が強い関心があることも悟られたくないほど、卑俗な対象、あるいは恥ずかしい対象としてのイメージから離れることができないでいる。神様が最も力を投入されて創造された器官であり、生命の本宮、愛の本宮、血統の本宮だとまで言われるにも拘わらず、それでもまだ卑俗なイメージを払拭できない。堕落によって最も尊いものが最も卑しいものとなった訳だが、私達が御父様と同じ生殖器に対する想いを相続する為にはどうしたらいいのだろうか。人間誰しも程度の差はあれ性への渇望がある。それを本能と捉えるのが一般的だが、睡眠欲や食欲といった本能とは一線を画しているのは明らかで、それは性欲を充足しなくても生命に影響がないことから理解できる。固体生命への影響はないが血族生命への影響は確かにあって、性欲は血統というものを無視できない、固体意識下にある無意識領域の欲求と繋がっていると言える。固体生命に表出する性欲は、生命体としての本能ではなく、血族生命としての存在への堕落的渇望だ。よって性を主管できる者は血族生命の血族意識を孤我意識を超えて持つのであり、血統を主管できる者だ。血統を恰も自分の体だと認識できる意識を持っている。では血統の流れを考えた時に、私が多くの子女を得て複数の流れを造ることと、私が複数の女性を相手に血統に枝分かれさせて流れを増やすこととの違いは何だろうか。イスラエル民族とアラブ民族の終りなき対立を見れば、一夫一婦の子孫による血統の枝分かれで繁殖する場合と、一夫多妻による血統の枝分かれで繁殖する場合の違いがわかる。子が出来ないアブラハムの妻サラ自身がお膳立てしてアブラハムにハガルを宛がったが、それでも今の今まで対立が続いていることを考えれば、一つの凸に一つの凹というのは心情的観点からも神様が天の父母様であり天の父と母達とはならないことからも理解できる。夫婦一対の霊で一体となって神の似姿であり、それで一つの霊的存在として神様の前に立てる。私達は永遠なる祝福カップルとして絶対性への拘りは思考と感情を越えて死守すべきだ。子供に恵まれない、子供が祝福を受けない、相対者と死別した、等という理由から別の相対を、、と考える思考、より美しい女性、魅力的な性に向かう感情、その思考、その感情こそ犠牲として捧げながら祝福の血統を自分の存在以上に重要視する。そうであれば私の血統に絶対性が備わった生殖器を持つことができるのであり、聖なる器官、聖なる生殖器として侍ることができるのであり、堕落的な卑属な対象、恥ずかしい器官というイメージは将来的に血統から払拭されるはずだ。私の絶対性への拘りと強い想いが、聖なる生殖器として侍ることができる、皇族圏としての祝福血統を再創造している。

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