2013年10月7日月曜日

今日の想い 638

生殖器は生命と愛と血統の本宮であり根源地である。要するに生殖器ゆえに生命があり、愛があり、血統がある。生殖器の創造が全ての創造の原点でもある。絶対信仰、絶対愛、絶対服従という言葉も生殖器に対しての言葉だと言われたのであり、それ程に尊い生殖器でありながら、しかし堕落も罪の歴史もこの生殖器故のことであり、生殖器は最も尊いけれども一方で最も穢れていて恥ずかしく思っている。御父様は堕落を、「逆さまにして打ち込んだ」という表現もされており、それはルーシェルの上にエバが乗り、本来下の位置で上から受け入れるものを逆さまにして下から入れさせたというお話と合っている。地上的な理解だと相手がルーシェルであったからそれは問題だけれども、上だろうが下だろうがどちらでも堕落は堕落だと思うのだが、霊的堕落に於いてはそれが深い意味を持っているということだ。ルーシェルは霊的存在で欲望も知恵も賦与されていた。エバの愛を奪いたいという過分な欲望がエバを誘惑し、しかし知恵あるルーシェルは自分で事に至らせたのではなく、エバを乗っからせてエバの意志で事に至らせた。エバは羽交い締めされて身動きできないのではなく上の位置で自由なのだからそこにエバの意志が働いたということになる。創造も堕落も生殖器が関わっているのだからもっと研究すべき余地があり、絶対性という言葉も私達が捉えているのは表面的概念であって、御父様の絶対性の概念は霊的勝利に拠る霊的深みから取り出されたものに違いないだろうから、もっと突き詰める必要がある。生殖器については、聖書では「取って食べるな」と、食べるという言葉を使われているように、御父様も「よく食べる」という表現も使われている。それは良い食べ方も悪い食べ方もあることを前提にした表現だ。相手さえ間違わなければ、不倫せず相対者を食べるのであれば、それは良い食べ方と言えるのかどうなのか。上か下かを厳しく問われた(指示された?)こともあり、それは絶対性とどうかかわるのか。事細かにこれは駄目あれは駄目と並べて教条主義的になれと言うのではなく、心魂の活動である思考感情意志として生殖器とどう向き合うのが御父様の願いなのか、どうすれば御父様の絶対性の概念に近付くことができるのか、私達は知っているようで実のところ殆ど知らない。

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