2013年10月21日月曜日

今日の想い 647(内界で出会う)

外界への関心が強すぎて原因的な私の内界に目をやることが疎かになっている。御父様に出会いみ言葉を理解しみ旨に参画しているつもりだろうが、外界で御父様に出会うことと内界で御父様を見出すこととは異なる。み言葉を理解することとみ言葉を内界で打ち立てることとは異なる。み旨に参画することと内界で神様の家が建立されることとは異なる。自分の内界のことは見ぬ振りをして、教会がどうの責任者がどうのと口うるさく批判すればするほど、内界はウジ虫が湧いて腐っていく。悪霊が私の内的霊的世界を蝕んでいく。食べくさして掃除しなければウジが湧くように、内面を無視しているうちにいつの間にか修正できないほど霊人体が輪郭を崩し歪んでいく。外界の汚さ醜さは目に余るものがあると、ひたすら批難の言葉を連ねているが、実は批難の言葉は自分の内界に対しても向けられている事実に気付いていない。連ねる言葉は使命感を伴った義憤なのかも知れない。批難すべき事柄もあってそれに目をつぶれ口もつぐめとは言わない。大いにしたらいい。しかし同じ言葉と同じ感情を自分にも向けているという、自分の内界に対して向けている事実を忘れてはならない。自分の吐いた言葉で自分が裁かれる。内界で御父様を見出しているのか、み言葉が内界で打ち立てられているのか、内界で神様の家が建てられているのか、それが為されなければ自分の吐いた言葉で自分が裁かれる。或る面ひとつの霊的段階を越えて、批難する目を持ち口を持てるほどにステージを上げた位置に立っているとも言えるが、外界に向けた同じ言葉が内界に響いて地震となり、それに耐えうるほどの堅固な内界に発展させていく必要性がある。そうなると批判や批難という態度ではなく、進言という態度を備えたもの言いでなければ、外界に向けた言葉が自己創造ではなく自己破壊的なものになっていく。

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