2013年10月18日金曜日

今日の想い 645

私と妻は似た者同士で、御父様に挨拶したとき兄妹のようだと口にされたほどだが、それでもそれなりに戦いはある。み言葉によれば男と女自体が怨讐関係ということだから戦いはあって当然だろう。御父様によってマッチングされ祝福を受けたのだから、どんな食口であっても壊したいとは思っていない。しかし祝福を受けても夫婦間の関係は多種多様で、自分達夫婦を基準に他の夫婦関係を量ることはできないし、自分達夫婦がうまくいっているからと言って他の夫婦をどうこう言うこともできない。折り合いがうまくいかない夫婦だってたくさんいるし、中には壊れてしまう夫婦だってある。夫婦の関係をキープしているからと言って、壊れた夫婦がそれなりに努力してきた愛の投入以上の投入をしてきたとは言えない。同じ祝福を受けたけれども、同じ夫婦の関係にはならない。祝福は壊すべきではないと御父様は言われたはずだが、しかし壊れてしまった夫婦に対して責められる言葉を耳にしたことは無い。普通の親でさえも、仲の悪い息子や娘夫婦に対して別れるべきではないと強く言っても、一端別れてしまったものに対しては責めたいとは思わないだろう。祝福は壊すべきではないと言うのは、食口であれば百も承知だ。子女様であっても勿論同じだ。しかし別れた夫婦には、祝福を受けたにも拘わらず別れざるを得なかった現実がある。それを責めることができるのは唯一、祝福を与えた御父母様だけだ。しかし御父母様は責めることはされない。真の親だからだ。御父母様が責めないのに、そして許そうとされるのに、私が責めることができるだろうか。どうこう言うことができるだろうか。言えると言うならそれは教条主義に立つのであって、真の愛主義、心情主義に立つなら責めることはできないだろう。食口の誰もが複雑な想いで或る子女様を見守っている。事情と現実と願いと、そしてそれぞれの想いが複雑に関わっている。御父様の路程が複雑であるように、御子女様の歩みも複雑だ。子女様の行動を祝福もできず、かと言って批難もできず、静かに見守るしか為す術は無い。主の路程や摂理の意味の殆どを理解していないように、今の私達の心霊基準で答えを出せず、未来の私達や後孫に委ねるべきものも多くある。その一つだと思うしかないだろう。しかし確実に、好奇な目でみようとしたり槍玉に上げようとするのは間違っている。

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