2013年10月12日土曜日

真の神様

真の父母という門を通らなくては真の神様を理解できないし真の神様に会えない。み言葉には真の何々という表現がたくさんあるが、真の神様という言葉も偽りの神様を信じている現実を踏まえた言葉であって、神様に対する正しい概念を持つなら敢えて真の、、とつける必要はないだろう。神様に対する正しい概念は真の父母という門を通らなければならない。堕落して偽りの父母によって存在している人類が、様々な宗教、それは無神論者が神はいないというときのイメージしている彼らの神の概念も含めて、様々な神の概念を持っているが、どれも正しい概念ではない。真の神様の概念を持てるのは真の父母の門を通った者だけが受け取れるのであって、旧約時代の選民達の神の概念も真の神様とは異なるし、新約時代のクリスチャン達の神の概念も真の神様とは異なる。そして分派、反対派が反真の父母を表明するなら真の神様への門は閉じられたのであり、彼らが口にする神様は偽りの神であり、偽りの神を信奉している。人はそれぞれが持つ神様のイメージがあり、真の父母を受け入れるのもそのイメージを壊されない限りでのことであって、真の父母を受け入れることで自分の神様のイメージが壊されるようなら或る時から受け入れない。食口の中には二種類あって、真の父母を先ず受け入れて真の父母が持っている神様の概念を受け取ろうとする者と、壊されたくない神様のイメージが先ずあってその上で真の父母を受け入れる者とがいる。み言葉を論理として、すなわち思考としてだけ受け入れる者達の多くは、壊されたくない神様のイメージが先行していることに気付いていない。み言葉を受け入れる内的態度は、私の正しくない神様のイメージをことごとく壊して下さい、御父様の真の神様の概念を私の中に打ち立てて下さいという切実な姿勢でこそ、堕落の私から御父母様によって重生した私の部分が私を占拠できるのであって、堕落の私を否定し切れないまま、み言葉の一部分をそこだけ取り出して、み言葉にはこうあると論理を展開しても堕落圏内は所詮堕落圏内であり、天聖経の書き換えがどうの、天の父母様がどうの、矢継ぎ早に批判を呈するけれども全く話にならない。

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