2013年10月3日木曜日

今日の想い 635

以前にも記したように、人間ひとりが一つの人格のみを持っているのではなく、複数の人格を併せ持つ統一体だということだ。人間は実体に分立された形象的個性真理体ではあるけれども、それがひとつだけの霊存在だという意味とはならない。人によって程度の違いはあれ、自分の中に複数の人格を認める。私という自意識のもとに体が願う声を発する人格と、心が願う声を発する人格がある。さらにそれぞれの背後にも複数の人格が息衝いていて、それらを統合した声として肉の声、心の声を代表的に発している。私という存在の深みを掘り起こせば掘り起こすほど複雑系の私であることに気付く。物事の成り行きに於いても、それが善神の業か悪神の業かの判断が為されて水と油に分けられるようなものではなく、善神の業の中にも悪神の業が働き、悪神の業の中にも善神の業が働いている部分もある。どれほど残虐非道な行動であっても、そこに一分であっても善神の業が働いている。そしてどれほど清廉潔白な行動のようであっても、やはり悪神の業が働いている。そうなると、教会に所属し、教会の指示に従ってさえいれば全ての物事が善神の業で何の心配もない、とは言えないということだ。しかしそれでも教会内にいる私を自覚していれば御父母様の主管圏内ではあるが、第四次アダム時代を宣布されたと言うことは、教会に所属していさえすれば安全圏だとは言えず、自己の責任が追及される蕩減のない時代、即ち許しのない時代であり、御父様の心情圏こそが安全地帯であり私達はどうやって心情を相続し、心情圏に入ることができるかということに尽きる。いろんな顔を持つ私の中で、最も確かな私という存在は御父母様によって重生した私という核以外、他は寄生虫だと思った方がいい。しかし重生した私という核の正体を未だに知らないし、表面的な私が私だと思い込んで生活している。訓読するのも、み旨を歩むのも、祈祷するのも、重生した真の私を探し出す路程だと言ってもいいだろう。

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