2013年10月25日金曜日

大聖堂にて

妻の運動と気分転換を兼ねて、大聖堂まで足を延ばしてみた。店があるルート355からウィスコンシンアベニューに繋がる直線道路を、DC方面に南下して30分も走ると、修復している大聖堂の先端部分が見えてくる。実は30年もこの地域におりながら、素通りするばかりで一度も訪れたことは無かった。アカデミーの建物を過ぎるとパーキングのサインがあり、反対車線から車のこないのを確認してハンドルを左に切る。車はそのまま大聖堂の地下駐車場に導入される。空きスペースに停めてエレベーターで地上に出ると、アップした一番上の画像景色が直ぐ目に入ってくる。秋晴れのいい天気だったが風は結構強く、聖堂を見上げる顔に吹き付けてきた。正面横の入り口から入り、訊ねられるままにドーネーションを気持ち差し出すと、聖堂内ネーブに足を踏み入れる。幾重にも並べられた信者席に圧倒される間もなく全体を見渡してしまうほど、左右から、そして遥か見上げる上方から、柔らかな色とりどりの光が差し込み広い空間の中を満たしていて、その情景に釘付けになる。両サイドに立ち並ぶ太い柱に隔てられて回廊がのび、回廊の壁に並ぶ大きなステンドグラスから色とりどりの光は導入されている。回廊上方の壁にもステンドグラスが並んで配されいて、そこから差し込む光は高く張られたネットに憩うように投影されている。妻は貰ったパンフレットに一生懸命挑んでいたけれども、私はというと何の情報も入れずに、ひたすら内的に受け取る印象だけを満たすことで発見できるものはないかと試みた。教会建築は荘厳という表現が当て嵌まるのだろうが、ひとつの発見として荘厳とは空間表現を述べた言葉だと思った。聖堂外見の威厳もさることながら、聖堂内の空間表現こそが神界の神霊的なものを視覚化している。その荘厳な空間内に、この小さな身を空間の底の一点に置いてみると、神霊的なものへの畏怖の感情が心魂の表面に浮かんでくる。天国で御父様の前に膝まづくなら、この畏怖の感情は最大限に増幅されて、その場にいるのが居たたまれなくて、我が身の恥かしさを痛いほどに覚えるのだろう。聖堂の中に居留まることは耐えられるとしても、御父様の前で私は畏怖の火で焼き尽くされるのではないだろうか。地上界で、大気の底で蠢(うごめ)いているだけの私は、どうすれば人々が畏怖の感情と共に見上げることができる、そんな御父母様の証し人になれるだろうか。


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