2013年10月4日金曜日

今日の想い 636(欲望というアクセル)

欲望という言葉を想起した時に、何かいかがわしい衝動であったり、メラメラと燃える自己中心的満足への渇望であったりして、信仰で否定して抑え込むべきものとするイメージが私達の中にある。確かに異性への肉欲も、過分な物欲も否定されて来た道ではあるけれども、だからと言って如何なる欲望も抹殺することが願われているのではない。創造原理にあるように、人間も天使長も創造本性として欲望と知能が賦与されていたのであり、欲望を抑え込むことは本性を否定することになる。欲望をいかに主管しながら、それは衝動をみ旨にプラスと為し善なる方向性に向かわせながら、否定して押さえ込むのではなく欲望の力をみ旨に利用できる私となれれば、それは自己主管していると言えるだろう。創造本性としての欲望を抜かれてしまい、去勢された牛や猫のような大人しいだけの私達なら、み旨への想い、復帰への執念も見当たらず、神様が最も愛すべき祝福家庭としての私達であるのに、ただ惰性的に歩む半機械化された私達に貶めることにはならないだろうか。欲望を肯定すれば自己中心的なものへ向かってしまうが、逆に否定すれば夢や希望さえも否定しかねないという狭間で、落ちることはないけれどもかといってみ旨に生命を燃やすこともない。そんな燻ぶり状態でここまで来たけれども、そんな位置がいつまでも赦されるはずもなく、そういう意味では今の混乱期は一方で憂える面があるけれども、かたや食口それぞれは主体的能動的に自分と御父母様との関係、自分の欲望とみ旨への関与を尋ねて再構築できる恩恵の面がある。み旨だみ旨だと呟きながら、蓋を閉じてしまって見ようともしなかった私の欲望が渦巻いている。今こそその欲望に対峙しなければならない。欲望こそが地上で生きる力だ。どれだけの食口が富への欲望、権力への欲望、さらに敢えて言うなら異性への欲望にさえ燃え立つ自分を感じているだろうか。一方で欲望というアクセルがあり、一方で理性や知能というブレーキがある。み言葉の実体を目指して方向を取るハンドルは、摂理を経て訓練されながら良心の力として備えられているはずだ。もちろんアクセルを吹かし続けるなら危険極まりないが、何かを成し遂げる為には欲望は大きくなければならない。去勢された者達が集められて天国はできるだろうか。それを地上天国と言えるだろうか。それは天国ではなく家畜が人間に変わった牧場に過ぎない。

0 件のコメント: