2013年10月31日木曜日

今日の想い 652

アブラハムは神の命令に従い、最愛の息子イサクを捧げることを決意した。しかし祭壇に横たわるイサクにいざ剣を振り下ろそうとしたその時、神の声が下ってきてイサクの献祭は留められた。もしここで神がイサク献祭を止めずに、そのまま遂行されていたら歴史はどうなっていただろうか。IFはどこまでもIFでしかないが、IFを問うことで対比する選択された現実の意味が見えてくる。現実という実りを最大限に用いる為にもIFを問うことは大切だ。献祭とは犠牲の供えを仲介として天に繋がることだ。犠牲は天の主管内にあり天がその犠牲と共にある。私達は犠牲として精誠を捧げるのであり、精誠は天が主管し天がその精誠と共にあるが、精誠が生命の犠牲となると天は地上に手を出す条件になる。イサク献祭がもしなされたなら、犠牲であるイサクは天の主管内にあり天がイサクと共にある。イサクはアブラハムの最愛の息子であってイサクとアブラハムは一体であり、そのイサクが天と共にあるなら勿論アブラハムもイサクをして天と共にある。遂行されたとして、イサク献祭以降のアブラハムの摂理は天が直接的に主管したはずだ。要するに手を下したはずだ。実際はイサク献祭はなかったから天の主管ではなくアブラハムやその後孫の主管下に置かれた。要するに彼らの自由に委ねた。彼らの自由に委ねれば、天は手を下さずただ見守るだけだ。犠牲と蕩減、犠牲と責任分担との関係を見ると、犠牲を供えることで蕩減は減少法により少なくなるし、犠牲を供えることで責任分担は復帰に関する限り推し進められる。そういった犠牲の恩恵にどれだけ与ることができるかは、犠牲となった存在とどれだけ一つになっているかによる。清平の摂理は興進様の犠牲によって開かれた恩恵だが、興進様の犠牲の意味を知り、興進様の心情を受け取る者でなければその恩恵に与ることはできない。恩恵は先祖解怨と先祖祝福だが、それによって奇跡的な蕩減の減少、遅々として進まない責任分担の奇跡的な推進がなされた。それでは御父様の犠牲、特に聖和に関する犠牲を私達はどう捉えるべきだろうか。その恩恵をどこに見出すべきだろうか。妻は、御父様が地上を去られて何か気が抜けたようだと口にするが、本来は気が抜けるどころの騒ぎではない、それこそ天地がひっくり返ったということだ。私達の多くは魂の所在を失い、心魂は彷徨っている。地上的な御父様と共にあった私達の心魂は、実体み言という霊的な御父様を探して掴まなければ心魂は彷徨ったままだ。しかし霊的な御父様を探す前に、先ず霊的という正しい認識を持たなければ探しようもない。霊的なことへの正しい認識に欠け、み言葉を受け入れた食口であってもその認識がまちまちなので自ずと混乱を来たす。完成時代から第四次アダム心情圏時代に越えて生き残り(霊的な意味で、、)、さらに発展できるかどうかは実体み言であられる霊的な御父様を探し当て、迎え入れることができるかどうかによる。御父様の聖和への犠牲とそれによる恩恵、しかしその恩恵は実に重い恩恵であり、この世的気分の高揚を見るようなものではないし、それは神霊的な高揚でもないと思う。実は私達は恩恵を受ける立場というより、御父様の恩恵を与える立場にあると思っている。今この世にとっては私達はどうでもいい存在なのだろうが、この世が私達を必要とする時代は確実に来る。今私達の魂は御父様を失って彷徨っているけれども、これからは世の人々の全ての心魂が彷徨い始める。霊界が地上に押し寄せると、今まで思いもしなかった心魂状態を自覚し、心魂の安着と安寧をひたすら求めるようになる。

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