2013年10月6日日曜日

今日の想い 637

内的霊的なものが主体であり原因であり、外的地上的なものが対象であり結果だ。私達が誤解し易いのは、外的地上的な位置で内的霊的なものを考察するから、地上的見地での霊的様相であって、それは内的霊的な本質とは異なるということだ。霊界を素晴らしい別の地上界の存在だと信じたり、罪は霊的事実としてあるが欲望それ自体を罪だと信じたり、霊感が開かれれば地上で見たり聞いたりするのと同じように霊人の声が聞こえ霊人が見えると信じたり、信仰も生命も愛も血統でさえも、全て地上的見地から眺める捉え方であって本質とは異なっている。それは唯物主義とは言わないにしても唯物的な捉え方に近いだろう。霊的本質がわからないからみ言葉の本質を受け取れない。御父様の勝利圏がわからない。地上的見地で理解しようとするからわかろうはずがない。後天時代に入っても、基元節を越えても何も変わっていないと思っている。本当に内的霊的なものを主体にして生きれば、全く新しい世界に突入したのを感じ取るだろう。私達はどのように伝道の願いに応えていくのだろうか。どのように環境創造を為していくのだろうか。相も変わらず先天時代の意識を引き摺って、それは旧態依然の世界に執着することであり、伝道が難しく経済も難しく二世も立たず、御父様の霊的勝利圏に立って目を見張るような証しを立てる未来も見えない。継続的な毎日に流され、基元節前と後の変化と転換のクロスポイントを天宙では確実に迎えているはずなのに、自分の中に迎えられないまま同じ意識を引き摺っている。同じ意識を引き摺ったままみすぼらしい食口の姿を晒している。基元節が私の基元節になっていない食口達を見れば、霊的感性の欠如がこれほどに残酷なものかと思い知る。内的霊的なものがわからないならせめて信じる位置で、伝道や経済への否定的感情は捨て去ることだ。出来ない言い訳と否定的感情をひとつ、またひとつ際限なく取り出すより、大風呂敷を広げるにしても夢を語り希望を自らに語るべきだ。それは他に対してそういう態度を取ると言うよりも、自分という器を新しい後天開闢時代に相応しいものとして用意する為に、自分の内面から一切の否定的言葉と否定的感情を捨て去って夢と希望で内面を光輝かせることだ。私達が完成圏に、そして天の父母直接主管圏に入れるかどうかは私達第四次アダムの意識次第だ。

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