2013年10月9日水曜日

今日の想い 640

教会に対して批判したいならいくらでもすればいいだろう。幹部や責任者に対して文句を言いたいなら、公開されたブログにいくらでも連ねることができる。天に対して負債の一つもない者が批判もし文句も言うべきだとまでは言わない。前にも記したように、どんな責任者であれ善神だけが働いている訳ではなく、悪神の働いている部分も確かにあるかも知れない。しかしそれでも御父様の主管圏のもとであり、保護圏のもとで彼らは教会運営を為してきた。私達一人一人が氏族メシヤでありながらその実りを供えることができず、祝福家庭でありながら家庭理想に届かない実情も知っておられ、許され、それでもみ旨を任せて下さる同じ御父母様の主管圏、保護圏のもとにあるのと同じことだ。負債の一つもない者が批判すべきだとは言わないが、自分に負債のあることを覚えた者でなければ、負債のあるのを認識しそれを踏まえて言葉を選ぶ者でなければ、批判する資格はない。霊界は恐ろしいところだ。私の一挙手一投足の行動だけに留まらず、私が口にした一言一句、私が記した一語一句、ひとつの漏れもなく記録されている。記録されていて消されることは無い。愛を呼吸し、御父様が語られるところの良心が直接的に霊人体の核となる霊界生活では、私の行動として、言動として、記録して残した全てが、霊界に於いては外界の在り様、存在様相となって逆に私を断定する。私自身が残した内容で私は裁かれる。私達は地上生活の自分の行動言動の一つ一つ、些細なものから大きな動きに至るまで全て、それが私の何を動機としているのかを十二分に精査しなければならない。ネットの世界では指差して言いたい衝動をあまりにも簡単に打ち込んで公開することができる。衝動を発する私の動機が何なのかと言うことに対して、精査されず配慮に欠けたまま、ネット世界に垂れ流している。それは自分がやがてはまり込む霊界の罠を自分で用意しているようなものだ。霊界の実情をあまりにも知らないし、霊界に於ける御父母様の権能がどれほどのものか知ろうともしない。み言葉を知りながら本質を受け取れず、原理用語を使っただけの狭い宗教観、道徳倫理観で自分を枷に嵌め、広大な真の愛の世界観に立てないでいる。真の愛の中に許しも救いもあるのであって、御父様を一人の宗教家としてしか見ることができない、真の父母という概念を正しく受け取れない者達は霊界の真実を知らず、真の愛に保護されず、自分で自分の首を絞めている。

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