2013年12月14日土曜日

今日の想い 674

絶対、唯一、不変、永遠の神様であられるけれども、最初からそういった様相の神様として存在しておられたのかどうか。最初からという過程の話となると、時空を超越されて存在される神様には当て嵌まらないと言えるのかも知れないが、では神様は何の苦労もなく当たり前のこととして絶対、唯一、不変、永遠の存在でもともとあられたのか。「神様が完全であられるように、あなた方も完全でありなさい。」という聖句。さらに、「神様が絶対信仰、絶対愛、絶対服従されたのであるから私達も絶対信仰、絶対愛、絶対服従に立たなければならない。」というみ言葉。ここでは特に絶対について述べるとすると、神様が何の苦労もなくもともと絶対の存在であられたなら、子女である私達に親である神様が絶対存在となる為に苦労を強いられるだろうか。それは私達が堕落した存在であるから絶対を復帰する為に苦労が必要なのであって、本来アダムとエバが堕落しなかったなら苦労せずとも絶対の位置に立てたのだろうか。堕落していないアダムとエバにも責任分担は与えられたのであり、責任分担とは犠牲なり精誠なりそう言った投入する苦労、いや労苦があってこそ責任分担という言葉は成り立つはずだ。戒めを守るという責任分担には、堕落が偶発的に起きた事件事故では片づけられない、アダムとエバが彼らの責任に於いて完全投入すべき事柄(おそらく犠牲)が既に含まれているように思える。堕落以前のアダムエバの立場でも、堕落人間が復帰する過程に於いても、位置と立場は違えども責任分担は責任分担として与えられている。自己の責任に於いて完全投入すべき状況は変わらないということだ。そうであるなら、神様が親の立場でアダムエバが完全投入すべき内容を越えて余りある内容を、絶対的に供えられた位置に立たれておられるから彼らにその試練とも言える立場を与えられた。神様は絶対という概念を属性として備えられる為にアダムエバと人類を越えて余りある絶対信仰、絶対愛、絶対服従の過程を既に供えられた。私は絶対信仰、絶対愛、絶対服従というその言葉の位置を仰ぎ見る以上に、絶対信仰、絶対愛、絶対服従への過程の中にこそ「心情」は詰まっているように思われる。その位置を仰ぎ見て溜息をつくよりも、その過程に足を踏み入れ、果てしない遠い道のりであっても確実に足を前に出すことで、絶対存在に至った神様の心情の一つ一つを受け取れることに注目したい。そして、そのことの尊さを大事にしたい。その心情という観点に立つなら、位置の上下、罪の多少、立場の違い、全てに関係なく平等に与えられている。否、意外と位置が低く、罪が多く、悪い立場の方が心情は手の届くところに転がっているのかも知れない。

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