2013年12月27日金曜日

今日の想い 682

私は心配しすぎることで心を病む。心を病むと暫く不安定な精神状態になる。不安のオバケに取り付かれる。神様がいない、霊界の存在を知らない、かつての、み言葉に出会う以前の発狂しそうな状態とは比べものにならないけれども、それでも不安の思いが後から後から襲ってくる。畳み掛けてくる不安と戦いながら、それで守りの姿勢に入ってしまうと益々自己中心的な位置から抜け出せなくなる。より公的な意識を取り戻さなければ全体あっての個であることを否定したことになる。自己中心的な在り様は人それぞれであり、絵に描いたような勧善懲悪の図式に無理にはめ込んで、その都合上の悪を自己中心的と受け入れている稚拙な者は流石にいないだろうが、それでも食口の中にも自分の感情の判断に任せて実に単純に善悪を分けている者もいる。自分の中に既に善悪混同が起こっている存在であるのに、善の立場に立たされれば自分の中に悪がないかのような錯覚でいる。教会は勿論善の立場であるけれども、教会の中にいる私も善だという認識は大きな錯覚だ。そんな錯覚が教会を御父母様願わないあらぬ方向へ向けさせる。私の中に蟻の大群のように不安存在が押し寄せて自己中心的な守りの姿勢に益々収縮するように、教会の中の食口一人一人が教会に対して不安を抱けば、教会全体は自己中心的な方向へ向かい教会活動は小さくなってしまう。為に生き、犠牲精神を御父様から学んだはずなのに、それが生きた言葉として教会の中に息衝いているだろうか。不安と、恐れと、慄(おのの)きと、更に恨みと、妬みと、裏切りと、そんな堕落的要素が教会内にも蔓延してしまった。そうなると善悪に分けカインアベルに分けざるを得ない。論理や説得にどんなに言葉を尽くしたとしても、そこに愛がなければ愛に代わるそれらの堕落的要素が根底にある。グループ派の言葉を受け取れば受け取るほどに空しくなるのは私だけだろうか。彼らから愛という言葉はあまり聞かないが、彼らが愛だと信じているものはただの慰めのように思える。しかし分けられたのであれば、本道である教会の内から堕落的要素は一掃されて御父母様と一体となるべきだ。相も変わらない教会様相であるなら分けられた意味はない。しかし一貫して言えるのは、食口は基本的に傲慢だ。自分は善だと思い込んでいる者が殆どだ。食口は霊界に行ったとき、先ず己の醜さに辟易するはずだ。全食口の中で本当の意味で悔い改めた者はどれほどいるだろう。祝福家庭という選民意識がどれほど鼻持ならないか。今私は心を病んでいる。心を病んで自分の腐れ切った霊的贓物に吐き気をもよおしている。それでも平気で御父母様の御名を口にする、救い様のない穢れの存在だ。

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