2013年12月10日火曜日

今日の想い 671

薄氷を踏むような思いで時を刻んでいく、という言い方が、今の私と妻には最も言い当てていて頷ける。退院はしたものの安定しない体調に不安を覚えたり、また束の間安堵したり、そしてまた別の不安に襲われたりと、二人して体も心魂も弄ばれている状況がいつ終るともなく続いている。不安や心配に留まり続けるということと、不安や心配から気遣い心遣いへと向かうということとのその違いは、一方は受動的であり今一方は能動的な態度であって、受動的であり続ければその不安は更なる不安を呼んでくる。不安を克服するためには能動的私を押し出さなければ、不安が常に私の一歩先にいて弱気な位置で内向きに閉じこもる。能動的私を前にいる不安より更に先に押し出し続けることで、私は希望という灯台を見出せるはずであり、見出したなら見失うことはないはずだ。荒れ狂う海に翻弄されていても、視点は飲み込まんとする高波に当てるのではなく、次から次と押し寄せる高波の向こうに確実に希望の灯台が、そして安着できる陸地が備えられていることに対して絶対信仰を供えるのであり、その用意されたカナンの福地に絶対に辿り着きますという決意と気概を維持し続けることだ。確かに私達夫婦は新たな一つの生命を授かった。その奇跡を無碍にも台無しにさせるなら、敢えて生き長らえる意味はないのかも知れない。それほどに尊い贈り物を差し出され、すがるように私達は受け取った。受け取ってはみたものの、その責任たるや今の私達夫婦の心霊基準では抱えられるものではないのかも知れない。そうなると寸分を待たず過酷な心魂の鍛錬が要求される。そうして退院した今も、鍛錬の只中にいて魂の柱を太く強くすべく鍛えられている。確かに今が私達夫婦の正念場だ。恩恵を受けるにはそれなりの精誠を差し出すのが蕩減法則だ。それが霊界での遣り取りに於ける霊的事実だ。この路程を勝利的に超えない限り、私達の未来は薄い。周りを見回せば家族皆が元気な祝福家庭、子供が祝福を受けて孫を嬉しそうに抱いている祝福家庭、うらやましくないと言えば嘘になる。それでも、他の家庭と比べて受け取る愛の減少感から妬みを起こすなら、自分と他の家庭に壁をつくり、他に対する自分という感情に留まり、彼らを同じ御父母様を親とする兄弟姉妹として受け取れない私だからこそ起こる感情に違いない。自体自覚に立てば、どうして私の家庭だけにと不満を募らせ残酷だと思うだろうし、他体自覚に立てば、越えてくれると期待して与えられた使命だと思えるだろう。誰が見ても同情を覚える位置で、しかしその位置に立たされながらも神様に同情するなら、神様の心情は動かざるを得ないだろう。御父様が悲惨な立場で神様を慰められ、神様の心情を動かされたように、私達はどんな立場であっても、その位置で神様の心情を動かす者となる。それでこそ統一食口だ。御父様の息子であり娘だ。

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