2013年12月21日土曜日

今日の想い 679

神様が人間を創造されたのは愛する対象を求めたから、すなわち愛の為に創造されたと私達は学んだ。愛の為であるから必要に迫られて創造されたのでもなく、人間創造を当然の成り行きとして創造されたのでもない。人間を創造しなくても神様は何の困ることもない。よって創造されたのは愛の為、という以外言いようが無い。そして愛とは真の愛であり、それは完全投入の愛だ。完全投入とは対象に対して完全投入であって、身を切るような想い、というより事実自分の身を切って対象に与えられた。私達は霊的な実質はよくわからないが、肉的な実質を分け与えることの痛みはよくわかるはずだ。自分の肉を切って与えることを思えばいい。目の一方をえぐりとって与えることを思えばいい。臓器を与えることを思えばいい。自分と一つである大切な家族の一人を与えることを思えばいい。霊的実質を与えることは肉的実質を与えること以上のはずだ。神様が人間を創造されたとき、神様の霊的実質を分け与えられた。私達は霊的無知でわからないけれども、私達の心魂の奥には神様が御自身の実質をえぐるように取り出して分け与えられた宝を戴いている。私達はその宝、神様から与えられた霊的実質に対して二通りの対し方がある。一つは霊的事実がわからないままにその宝を放っておいて自己中心的に生きるという対し方。今一つは霊的無知を克服しながら与えられた実質を認識し、向き合い、そして心魂の歩みを通して磨き、実質以上の実質に育てて神様にお返しするという対し方。勿論堕落したこの身では霊的無知を克服することですら難しい。ましてや実質以上の実質に育てるという個性完成の道のりは遠く険しいことはわかり切っている。しかし、だからと言って自己中心的に生きることを選べば、霊界の存在になったとき分け与えられた実質の尊さを知り、それを蔑ろにした生を送ったその悔恨の痛み苦しみは計り知れないだろう。私達はどれほど遅々とした真の愛の存在を標榜する歩みであったとしても、それでも踵を翻して自己中心的に生きるよりは余程いい。遅々とした真の愛への歩みであってもそれが次なる世代の土台になるからだ。40年を費やして、やっと自己中心的な位置から二、三歩のみの前進であったとしても、それでも諦めない。必ずや神様の心情圏にワープする瞬間を迎えるはずだ。どんな人間であっても神様の実質を心魂の奥に宿している。その実質を尊び、実質に語りかけながらみ言葉を伝えるのであって、その人の条件や心魂内容を相手にしているのではない。だから伝道は霊的であり、霊的な戦いでもある。相手の霊的実質を揺り動かし、思考や感情という心魂に波打つものを起こさせない限り、相手は眠ったまま私の働きかけから通り過ぎていく。

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