2013年12月1日日曜日

今日の想い 668

イエス様の時代であっても、生活は生活で流れていく。世界が注目していたとまでは言わなくても、イスラエルの民達やローマ市民全ての注目を浴びていたはずだと思っているが、事実はそのように注目されて十字架の摂理が為されたわけではない。人類の一大事件であるにもかかわらず、それでも人々は同じように食べ、同じように掃除も洗濯もし、仕事にも行っただろうし、世間話に花を咲かせていたはずだ。そうして同じように眠りに着いた。メシヤが十字架上で死を遂げたその日であるにもかかわらずだ。聖書を読めば全ての人々が注視している中で起こった事実のように受け止められるけれども、実際は、終末時代であっても人類の一大事件であっても、人々の生活は変わらなかった。現代でも全く同じだろう。再臨のメシヤを迎えても、御父母様が勝利圏を立てられても、後天開闢時代に入っても、やはり生活は生活で変わらず流れていく。外的にもあっと驚き、人々から注目を浴びる統一食口の姿を皆が思い描いていたのだろうが、それが何ともこの世的であり現実的御利益的な浅ましいものであったかを反省しなければならない。御父様の生きた精神を、心魂に受容し生命に受容し肉体に受容するのが統一食口であるべきなのに、抽象的なものに留まったままだ。抽象的であるから常に外に見ようとし、私達の内に見て確認しようとはしない。ペテロは確かに鶏が鳴く前にイエス様を三度否定した。しかしペテロはその否定がどれ程重いものであるかはよくよく解かっていたはずだ。己の罪の部分が超えていてイエス様に対する信仰が否定の言葉を発するのを制御する程にイエス様と一つにはなっていなかった。その落胆を己を瞬時に消してしまいたいほどに味わった。主の否定の重さを知っていればこそ、彼は逆さ十字をわざわざ申し出た。そこに罪の克服、主の否定の克服を自分に見ようとした。私達は御父様の願いを受けて摂理を担った。しかしそれは失敗の連続だった。その失敗のひとつひとつをどれ程悔い改めただろうか。ペテロが主の否定の重さを知っていた程に、為し得なかったその重さを抱えているだろうか。それどころか自分故に失敗したという認識の欠片もなく、ただ御父様を人類のメシヤとして認識していることだけで自分のゴールは得られたの如く、憎々しくも楽しく生き永らえている。私達がペテロが自覚したものの一欠けらでも認識していたなら、御父様は時期を早めて聖和されることはなかっただろう。ペンテコステ?あり得ない。能天気な我々にペンテコステのような神霊聖霊現象があり得るはずがない。小指の先ほどの為し得なかった重さの自覚も無いのに、何がどう狂えば霊的協助を体験できるだろうか。これからの摂理を担う者は、御父様への負債の重さを抱えられないほどに受け取る者しか、アベルの正道を行くことはできない。千万の死に値すると本心から思える者しか御父様の精神は受け継げない。

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