2013年12月8日日曜日
今日の想い 670
私たちは御父様、御父様と祈祷し、日頃の生活でも口にしながら、あたかも神様の全貌を理解したような気持ちになっているけれども、実際のところ神様の存在は確信していても、その在り様もよくわかっていなければ実感も薄い。自分の心魂すらよくわからず摩訶不思議で主管できないのに、どうして膨大な天宙を包み込まれる神様を理解していると言えるだろうか。霊的無知であるという認識から遠ざかったまま、私の認識が及ぶ範囲の神様の概念で神様に対しても神様も応えようがないだろう。さらには夜の神様、昼の神様と言われてみたり、天の御父様がおられ天の御母様もおられると言われてみたり、それは神様をハナニムという一つの概念と理解していた我々にとって混乱を及ぼす言葉でしかない。だからといって感覚世界の現実に重心を置いて生きるのであれば何も変わらないだろう。私の神様に対する理解が不完全なものであることは認めた上で、しかし感覚人間としての私がそのまま受け取る感覚世界から神様を引き出せるのではなく、感覚世界の現実の背後に霊界があり、霊界を通過して神様を引き出せる。肉体の背後に心魂があり心魂の深みに自我があってその核に神様がおられる。心魂の深みで自我を見出そうとするところに霊界の門が開くのであり、その位置でこそみ言葉の本質は発揮され、通常の悟性的人間として触れて学ぶみ言葉は極めて限られたものでしかない。み言葉の応用とは言葉をひねくり回し無理して繋げることで悟性の論理に通用させることではなく、無知なる霊界を照らして霊界の事実を受け取れるように扱えることがみ言葉の応用だ。或る現実に差し掛かった時、み言葉の本質を受け取れる者はこの世の感覚世界にどっぷり浸かっている者からすれば理解を越えた把握と答えを導き出して呆気に取られてしまう。私達の今までの歩みはこの世の者達には理解できない。蕩減もなくなり新しい時代であるこれからは社会に理解されるように行動して、、、。それならこの世への迎合だ。私達はこの世の者達の理解出来ない方向に敢えて向かったのではなく、霊界の事実を受け取った結果、結果的にこの世の者達の反感を買った。社会がどう思うかを気にするなら地上の現実に主管されているのであって、好感を持たれようが反感を持たれようが霊界の事実に沿って方向を定める。それでこそ霊連世協会だ。御父様が聖和されて全面的に霊界で活動されておられる。霊的な見地に立てば御父様は一層私達と近い関係にあり、今までどうしても得られなかった答えが祈って尋ねれば精誠の度合いに応じて直ぐにも答えを受け取れる。一問一答の関係を持てるのであり、神様と一体となられた御父様が私達の神様への理解を尋ねて答えを下さらないはずがない。
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