2013年12月24日火曜日
今日の想い 681
裁判所は、管轄外の問題だからという理由で、訴訟に持ち込まれても困ると逃げの姿勢を示した。しかしこれで最終結論とはならない。戦いはこれからだ。被告側は教会幹部によって教会財産は牛耳られていたと申し立て、原告側は御父様の指示通りに運営されていたと申し立てた。しかし被告側は狡猾にも法が裁かない位置で行動に出て、明らかに教会財産を手中に収めた現実がある。被告と原告は内的に見れば兄弟の位置関係にあってお互いが主張すれば平行線を辿り続ける。よって親の位置におられる御父様にお伺いを立て、それに従うのが内的霊的に正しいことは食口であれば誰でもわかる。被告は明らかに御父様の指示を無視し、現行法を傘に教会財産を奪った。彼らはありとあらゆる言い訳を付帯しているが、反御父様であることに違いはない。たとえもし教会が特定の幹部によって牛耳られていたとしても、御父様の指示を先ず仰ぐことはそれらの事案を越えて為されるべきだ。彼らの行動は正義の面を被った恨みの感情が動機となり、感情を越えた位置で御父様に絶対服従を立てる統一食口としての本分を投げ捨てている。彼らの恨みの感情に対して教会財産を奪ったことへの恨みで対しても埒は明かないが、協会側は恨みで訴訟に持ち込もうとしたわけではなく御父母様の指示に従い行動に出た。彼らは教会側の敗訴だと騒ぎ立てるが、教会側に敗訴も勝訴もない。御父様の心を煩わした時点で既に多大な負債を負っている。敗訴でも勝訴でも負債は負債で心情に重く抱えている。裁判所の結論が私達の結論ではない。私達はこの御父母様への負債を抱えながら、現実は現実として甘受しながら、内的霊的な柱を更に強くすることが願われている。敢えて言うならこの結果は結果で私達の意識をより霊的深みにもたらし、善なる動機を更なる善の動機とすべく良薬を与えて戴いたことになる。御父様が打たれた位置でサタンから奪い取りながら勝利の布石を打ってこられたように、私達も打たれた位置でこそ彼等から奪い取るものがある。必ずある。知的で論理的で現実的な彼らは奪い取られる霊的生命の価値を知らない。勝利したと喜びながら霊的に欠けていくものを認識できない。御父様に言わせれば霊を認識しない共産主義者達だ。共産主義者達は革命闘争を進めていきながら平和理想の実現を果たしている幻想に身を置いた。被告側であるグループ派も同じようにその活動を進めていきながら、平和理想を果たしている妄想に身を置いている。彼らは御父母様不在の活動が何を意味するのかわかっていない。御父様は文明に私達と共におられる。私達の中に太い霊的柱として立っておられる。御父様を口にするだけの中身のない張りぼて存在なのか、御父様が私の中に核として立っておられる存在なのか、表面的外的なものが透き通って行けば行くほど、その正体が暴かれる。後天開闢時代はそういう時代だ。彼らは霊的死の淵を見ざるを得ない。その霊界の事実を知らずに目を覆ったまま崖っぷちで踊っている。
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