2013年12月18日水曜日

今日の想い 678

信仰が絶対信仰に至る為には何が必要だろうか。私達に信仰がない訳ではない。確かに信仰は持っている。しかしそれぞれの信仰基準にはバラつきがあるだろうし、統一食口全体の信仰と宗教それぞれの信仰度合いを比べた時に、私達の全体信仰は彼らに勝っているだろうか。食口それぞれに於いても、復帰された頃から今まで歩んだ結果、信仰はより強くなったのかそれとも弱くなったのか。信仰が絶対信仰に向かうのであれば、この世のどんな信仰者よりも強いはずだが果たしてそう言えるのだろうか。日々の歩みの中で信仰は鍛えられていくものだろうし、試練を与えられてぶつかる度に信仰はその強度を上げていくだろう。しかしその実感、信仰が強くなって絶対信仰に向かっている実感を私達はどう受け取ればいいのだろうか。
「今から皆様は、真の父母様の教えを骨に刻みつけて実践する人生を生きなければなりません。選択の余地がありません。今から準備しなければ、間違いなく落伍者になるからです。七千メートルを超えるヒマラヤ山脈を往来し、越冬する鶴(アネハヅル)の勇気と気概を私たちも学ばなければなりません。」(天地人真の父母定着実体宣布天宙大会)
このみ言葉にあるように、一方では後天開闢時代という輝かしい未来を私達に約束された表現をされながら、しかし一方で、落後者になるからヒマラヤ山脈を越えるほどの困難を越えなければならないと語られている。異なる両極端のイメージを語られているようにも思われるけれども、要するに私達が胸を撫で下ろして、そのまま平坦な地上的幸福を送ると言うような、そんなイメージを基元節以降の後天開闢時代に抱かない方がいいと言うことだろう。信仰が絶対信仰に至る為には大小の試練を越えてこそより絶対信仰に近付くものだろう。私達は今勇気と気概を必要とする歩みをしているだろうか。アネハヅルの勇気と気概を学べ、と言う御父様の言葉が実感を持って私に迫ってくる、そんな試練の場に立たされなければこの言葉は単に素通りするだけだ。敢えてこのような表現を使われたという意味は、勇気と気概が必要になる試練の場に私達は遭遇することを暗示されているように思える。

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