2013年12月12日木曜日

今日の想い 672

地球は自転している。自転しながら夜と昼を交互に迎えている。しかし自転するだけでは夜と昼を交互に迎えられない。太陽との関係、すなわち太陽の周りを正しく公転することでそうなっている。自転公転とはよく言ったもので、自転はより私的であり公転はより公的であって、公的公転が為されない限りどれだけ自転しても夜昼の正確な一日一日は存在しない。その点を考えてみても、私という存在がどれだけ自分の願いを中心として生きようとしても空回りするばかりであり、公的な願いを中心として生きることで夜の原因的な心魂の深淵で受け取る霊的事実があり、昼の結果的な地上で花や果実という現実を受け取れる。神様と関係なく、霊界が何かもわからず、そんな地上の人生は平面的人生であって、生きているとは名ばかりの生だ。それに比べて心魂の深淵を旅し、その深みの更に奥に広がる霊界をも旅しながら歩む人生の何と味わい深いことか。地上の感覚世界に限られた生を送る人達にとっては私達の立体的な超感覚的味わい(心情世界)など知る由もない。同じ外界を同じように見て聞いて感じていると思っているけれども、異なる受け止め方をしていれば住む外界が異なっている。さしずめ、神様と関係もなく霊界が何かもわからない平面的人生は死んでいる外界に住んでいると言うことができ、神様と関係を持ち霊界を実感する立体的人生は外界の物事全てが生きて関わってくる。外界が声を発せなくても、動かなくても、それでも生き生きと私に関わってくる。地球が自転し、太陽の周りを公転しているという科学的イメージ先にありきでは、生きて私に働きかける宇宙ではなく死んだ宇宙としての宇宙の鞘(さや)しか受け取れない。確かに宇宙の鞘も大切で、鞘としての考察が宇宙科学を発展させたのも確かだが、しかしそれ以上に宇宙の本質の方が遥かに大切だ。本質が重要視されてこそ鞘を問う意味もあるのであり、科学に対する宗教が本質そのものとは言わないが、科学も宗教も超越できるみ言葉であって、み言葉を正しく受け入れることで公転すべき中心的存在、太陽存在を見出せる。私の中に御父母様を中心の核として迎えることが、すなわち私にとっての公転すべき中心存在、太陽存在を迎えて正しく自転できる私を創造している。

0 件のコメント: