2013年12月28日土曜日

御聖和を通して認識するもの

日本人は恥というものに対して特に敏感だ。性についても恥ずかしいという感情が先ず伴うのであり、そうなると原罪は性との関わり上、罪意識と恥ずかしいという意識とを混同しがちだ。罪と恥は同じ意味ではなく、罪の中に恥は含まれるのかも知れないが、恥は表層的感情の一部であるのに対して、罪は心魂の奥に潜む自己を悪に向かわせる見えない実体であり事実だ。罪を表層的恥と認識するに留まり、罪の本質を認識し得ない場合が往々にしてある。特に日本食口はそうだ。罪を表層的にのみ捉えてしまい、よってみ旨に対しても表層的な、心魂の奥にある罪に蓋をしたままの外的歩みに留まり、罪の許し、罪の解放の本質的意味がわかっていない。家庭円満、世界平和のイメージは描けるけれども、罪がわからず、罪の許し、罪の解放が為されなければ私は実は平和とは無縁の存在だ。無私の心でみ旨に殉じている私だと思っているのかも知れないが、無私どころか私という存在に執着し過ぎるが故の動機が行動になっている。霊界の門を通過するのに、罪の清算をして通過する訳だけれども、食口であるにも拘わらず、吐露すべき罪がわからず口籠る場面が多く見られる。恥ずかしい認識は持っているけれども罪の認識がない。多くの負債を神様に対しても御父母様に対しても抱えているのにその認識がない。罪が生じた堕落は肉的堕落の前に原因的霊的堕落がある。人が罪を犯す場合に於いても、外的で地上的な説明ができる罪を犯す前の段階で、私の中に内的に戦わずに居座ることを許した自己中心的思いや感情がある。食口の誰が、御父様の早まった御聖和に対して私の責任だと痛切に胸を打つものがいるだろうか。私の責任でもあるけれども皆の責任だと言うのは都合上のことであって、実際自分の責任だとは思っていないし、あるとするその責任感情も実に抽象的だ。しかし私の中にこの結果をもたらした内的原因、私の責任が必ず存在している。それをつきとめて悔い改めない限り、次には進めない。私も日本食口として罪の認識が甘いことはよくわかっている。しかし御父様と共に歩み、御父様に委ね、御父様から許しも祝福も戴いた事実のある実体の私だからこそ、この御聖和に対する私の責任を見出せる。それが私にとっては抽象的な堕落論の罪よりも実感的罪であり、実感的負債であり、だからこそ本当の意味で悔い改めることができる。そして本当の意味でみ旨に生きることができ、み旨の為に死ぬことができる。

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