2013年12月30日月曜日
今日の想い 683
訴えが棄却されて、司法の判断を仰げないなら何が、誰が、判断を下すのか。奪われたものは泣き寝入りに附され、声の大きい者が勝者としてのさばるのか。教会側は口を塞いで黙したまま、忘れたように2020に向けて歩み続けるのだろうか。それが本当に御父様の願いなのだろうか。内的霊的には教会が主体の位置に立っているはずだ。それでも国家の司法の判断に委ねようとされた、その意味は意味で問うべきだろうが、司法の判断と次元を異にする霊界の判断があるはずだし、天宙の良心が裁くはずだ。彼らの中では彼らの信じる良心をして辻褄が合うのだろうが、彼らが信じる良心が天宙の良心、神様と同じだと思わない方がいい。こんな説明が彼らに取って素っ頓狂なものであって、無視されて当然なのだろうが、しかし事実は事実だ。この事実を認識できないことが彼らが共産主義、唯物主義たる所以でもある。実際のところ彼らにとっては、司法によって貴方の行動はおかしいと判断された方が、霊界や神様によって鉄槌を振り下ろされるより遥かに楽だったはずだ。司法の判断に委ねるという意味はそれで許すことにするという減償法だ。内部分裂が起こった過程を見れば、教会側の傲慢さが無きにしも非ずと鑑みて、司法に委ねることを決定された。天宙の父母であられる真の御父母様が、霊界を動員できない、神様を動かせないとするなら、名ばかりの称号でしかないということだろうし、主体である霊界も無ければ神様も無力の神様でしかないということになる。しかしそうでないなら、これからいよいよ霊界の恐ろしさを思い知ることになるだろう。愛と赦しの神様から、怒りもし、恐ろしい神様の側面を見ることになるだろう。もちろん教会に属していればただそれだけで良しとされるものでは無いということは重々認識すべきだが、摂理の中心を担う教会に対して反旗を振るならそれを許しておかれる神様では絶対にない。しかし問題は別のところにもある。教会側でありながら、食口達の多くがあまりにも冷めた見方をしていて、御聖和、基元節の背後に流れてきた一連のこの問題に対して冷ややかな視線を送っていることだ。悔い改めの声が天に届かなければならないのに、食口のその悔い改めの叫びを天が取ってこそ天が力強く動けるだろうに、食口達が冷めている。天軍を受け入れるほどの燃える器になり得ていない。それを用意する為には、食口と言えども心魂の揺さ振りが必要で、眠っている心魂が天の心情に合わせて発動してこそ摂理は大きく進むはずだ。
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