2013年12月4日水曜日

価値観というベクトル

妻はいろんな病を体験しながら、病を通して、病という槌でひたすら打たれることで、健康の尊さを自分の中に打ち立てる。人は健康であればあるほど、健康の尊さとは無縁だ。健康な人が有難いと口にもし思いもするけれども、しかしそれは苦しい病を体験した者が口にする有難さと思いとは重みが違う。次元の異なる健康に対する感謝であり思いだと言ってもいいかも知れない。それは健康の尊さ、健康に関わる精神の柱を霊的に打ち立てている。霊界に行けばありとあらゆる奇怪な病が待ち受けている。様々な怨念が霊として纏わりつき、恨みの要素が霊人体の病として発病する。この世で健康ならあの世でも健康だと思うかも知れないが、健康の尊さを身を持って受け取れたなら霊界で健康体となるが、ただ健康だったからといって健康にはなれない。霊界では肉体を持たないので食物は必要がないが、正確に言うと天国や楽園では食物を取る必要はないが、中間霊界、地獄では食物を必要としている。それは人はパンのみで生きるという人生を生きてきたから、何よりも食べる必要性にかられた内的様相が霊的環境圏に現れる。食物を貪り取り合う霊的環境圏を、人は人生に於いて創造したと言うことができる。人が病を通して健康の尊さ、霊的健康を知るように、空腹を通して万物の有難さ、霊的満腹を知る。食口は祝福条件として七日断食を経験するが、私はと言うと断食を通して、神様の心情よりも何よりも、自分は万物がどれほど恋しいかを思い知った。決して裕福な育ちではなかったし、明日の米を子供ながらに心配したこともあったから、万物の大切さはわかっていたつもりだったが、それでも断食の時ほどに恋しいと思ったことは無い。基準が低いと言われれば確かにそうだが、恋しい万物であればこそ、万物を与えることに、万物を供えることに、万物を捧げることに、人一倍思い入れが深い。それは万物に対する執着心とは異なる万物への私の想いだ。だから同じ物を供えるにしても、誰よりも精誠が込められるはずだと思っている。飽食の時代に育った現代人は、食べるものにさへ事欠いた時代を生き抜いた人々とは異なる使命が与えられている。貧困の時代を生きた人々は大まかに二通りに分けられ、貧困によって執着心を育てた自己中心的人間と、貧困によって万物の尊さを知りそれを通して社会に貢献しようとした社会貢献人間とに分けられる。現代の物質的繁栄は後者の人々の強い万物への恋しさがその動機となっている。では飽食の時代に生きる現代人は何を求め、何を恋しく思っているのだろうか。それを敢えて一言で言うなら、私は価値観だと言いたい。形あるもの無いもの、見えるもの見えないもの、私の外にあるもの内側にあるもの、その全てに対する価値観を求めている。価値観への恋しさこそ、現代人の在り様だ。それは益々その度合いを強めている。そしてその度合いが強まれば強まるほど、全ての価値観を導き出してくれる成約のみ言葉がどれほど眩い霊的光であるかを私達食口ですらも思い知るだろう。

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