2013年12月15日日曜日

今日の想い 675

体の中に備わった新しい臓器に対して、他の臓器達が得体の知れない新参者が割り込んできたとのけ者にし、虐めるのが拒否反応だ。体が拒否反応を大きく起こせば新しい臓器はひとたまりもない。そこで抵抗を弱める為に服用するのがアンチリジェクションの薬だ。この薬の進歩の御蔭で移植手術の成功率は格段に上がった。しかし薬は薬、一方に効けば一方で副作用が起こるのは当たり前で、アンチリジェクションの薬を服用すればインフェクション、感染の可能性は一気に増す。体の抗体を弱める免疫抑制剤である為に、通常なら軽い風邪で終わるようなものも抵抗の弱い体には瞬時に感染して症状は大きくなる。症状が劇的に悪化すれば所詮新しい臓器にも影響が行く訳で、拒否と感染にどちらにも転ばないようにという手探りの投薬がしばらく続く。医者は拒否反応を嫌う訳で、勿論本人もそれはそうなのだが、どうしても服用は多めになる。よってどうしても或る程度の感染は避けられない。特にもともと胃腸の弱い妻は直ぐに腹にくる訳で、下痢は止まらないし、どこまでももどし続ける。腹の中に戻すものが無くてもそれでも体から水分を抜き取ってもどす。見るに忍びないが代わってやることはできないのでどうしようもない。一度は退院してからも直ぐにも感染し、症状が一気に悪化したため退院した二日後にはまた救急に運び込まれた。外的状況をどれほど理解しようが、痛み苦しみを甘受するには限度があって、それでも否応なしに痛み苦しみが襲ってくるなら外的な位置からではなく内的な位置で越える以外ない。痛み苦しみを甘受できるように内的救い、内的姿勢を見出さざるを得ない。それは信仰的にならざるを得ず、神様に向き合わざるを得ないし霊界の事実を受容せざるを得ない。流石に我が強いというか自尊心の強い妻も、自分は悪くないというこれまでに肩肘張って譲らなかったものを壊さざるを得なかったのだろう。これまでにない素直に天に自らの在り様を問うてみたり反省する様を見ると、神様は誰に対しても、どれだけ意地を張っていても、魂の救い、霊の救いに対して匙を投げることはないのだなと思わされた。体を悪くして吐くときには実に辛いものがある。本人によると内容物がないのに更に吐くとなるとこれほど辛いものはないらしい。小さい頃の経験だが、何か悪いものを口にしたのか夜中から腹がムカムカして苦しい。どうしても我慢できずに吐きそうになると、隣で休んでいた祖父が洗面器を持ってきてくれて渡してくれた。半分体を起こした状態で洗面器に口を宛がうと、その時祖父からこう言われた。「ちゃんと起きてかしこまって座り、手は膝の上に置き背は伸ばして、それからもどしなさい」と。言われた通りにすると、体の大変さは変わらないはずなのに吐くことに清々しささえ覚えた。姿勢は姿勢で、姿勢に心が従うように出来ていることをこの時祖父から教えられた。それ以来もどす時は、切腹でもするかのように、必ず姿勢を正して事に入る。もどすことは、与えて更に与える、犠牲を供え更に犠牲を供える、そんな他に投入する自分の在り方を身体的に象徴的に体験している。与えて更に与えてこられた神様の疑似体験ともいえる。痛みと苦しみの只中にいる妻に、こんな話をしたらどう思うだろうか。

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