2009年9月2日水曜日

今日の想い 98 (自分を元食口とする食口へ)

教会員として教会に属し、言われる通りにしていれば安心で、皆と同じ行動を取らないと不安で押しつぶされそうになる、だから嫌でも従わざるを得なかったという、そう言った脅迫観念にも似た期間は、教会員であれば誰もが経験しているかも知れない。み言表現として、背信すれば直ぐにも地獄に突き落とされそうに受け止められるものも確かにある。が、殆どは完全なる許しを含んだ真の愛のみ言だ。更に脅しめいた内容も愛故の親が子供に戒める程度の事だと思う。地獄の底で呻く悪鬼の頭ですら祝福して救おうとされるのに、少々のすったもんだで救いの糸を切られることなど有り得ない。心に引っ掛かる過去に犯した罪を数え上げ、自分の負債を種に活動の強制を押し付けられていると言う縛りがあったとするなら、閻魔大王的な信仰観こそ先ず変えるべきだろう。教会活動をいくらしたとしても、心と体が闘う限り天国には住めないとはっきり語られている。縛り付けられた生活環境で、言われたとおりにやった者は天国に行き、やらなかった者は地獄に行く程度の認識と、周りと同じ行動を取らないと不信仰のように思われ、周りを見回して自分の位置を測ろうとする日本特有の村意識で、我々の目に写るみ言の本質は曇らされている。周りを見ながらそれに自分が合わせる苦痛、責任者に指摘されて萎縮する自分、そう言った試練も入教当時はそれなりに意味はあるだろうが、信仰生活を五年も十年も歩んできてそう言った事柄に関わっているとするなら、信仰の為の信仰状態に未だに留まっていると言うことだろう。自分の悟性的理解であれ魂的理解であれ、この道が絶対信仰に値するものだと言う確信を備える為に、教会活動から一時距離を置いたとしても、原理を400回通読してみるとか、40日断食を決行された先輩食口のように納得のいく条件を立ててみるとか、能動的信仰を意志すべきである。受動的、他力本願的、日和見的信仰は絶対信仰とは言えないと思う。この道が特有の活動や、献身生活を意味するものではなく、今の時代圏、み旨を歩むいろんな形はあるはずだ。自分自身に言い聞かせるものとしても記している訳で、責任から逃げ回ってきた私は神様の位置からみれば明らかに負け犬の遠吠えであり、他のどの兄弟よりも真の父母からは遠い存在であることを告げておきたい。こんな自分も御父母様の心情の一片が伝わるし、出来の悪い息子としてだが愛されてもいる。だから元教会員の食口達をどれ程恋焦がれておられるだろうか。活動員としてではなく、御父母様の息子娘として、私の兄弟として帰ってきて欲しい。かつて知っている教会の場が嫌なら、何処に籍を置いたっていい。変な物言いかも知れないが過去のトラウマがあるなら半分遊んでいたって構わないと思う。教会を去らざるを得なかった心痛の想いは、教会で活動してきた者にも劣らない内的犠牲があり、その想いを御父様は必ず理解して下さる。摂理に翻弄され犠牲を供えた者は、御父母様を認めた者のみならず、直接み言を受けなかった者の中にもいて、御父様は想いをかけられるはずで、ましてや精神をすり減らして歩んだ者はなおさらだ。捨てるに捨てれなかった御写真を取り出し、無ければネットから幾らでもプリントアウト出来る。仮の祭壇に掲げて挨拶だけでもしてみてはどうだろうか。それだけの行動で御父様の御心情は伝わって来るはずだ。

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