2009年9月25日金曜日

概念の考察

何かひとつのものを示されて、これが愛そのものだと言われても納得することは無いだろうが、霊の認識に対しては感覚で捉える事が出来る固定的何かを求めている。愛がそこに存在すると言う時、一連の動きの中や過程の流れの中で、愛の存在性を把握しているし、感覚では捉えられないしかし在ると認める存在を指している。しかし、霊的な認識は愛の認識在り様とは違った、何か感覚的唯物的認識方法を当てはめようとしている。悟性という思考力を発達させた現代人としての堕落人間は、概念を感覚的、固定的なものとしてしか形成できなかった。固定的概念、唯物的概念で無機質な世界を築いても、そこに霊的実質は入り込めない。或る動きの中、或る過程の中に姿を表す霊を捉えようとするなら、堕落人間のそう言った概念を打ち砕く必要がある。内的霊的な事柄にしろ、外的な事物にしろ、移り行く法則から免れた存在など有り得ない。それを敢えて固定的概念で捉えようとするのは本当の認識とは言えない。自分という存在を見ても、昨日の自分と今日の自分は違う。一瞬、一瞬に於いて留まるところを知らない。それは心魂の在り様だけに留まらず、肉体の在り様に於いても、七年も経てば内蔵、脳細胞を含め全ての細胞は取り替えられている。百年千年変わらぬ岩山を前にしても、その存在を移り行く法則から免れた、固定的死の存在として受け取ることは間違っている。微動だにしない不変的な様相を差し出す為に、強固な霊的意志存在が不断なるエネルギーを投入し続けているが為に、その不変的表出を目の前にしているという本質的観察が必要なのだ。あらゆる存在様相を、そうあらしめる為に活動している霊存在を見ようとしなければ本質を認識しようとしているとは言えない。愛として受け取るとき、相手の表情や行動の中にそれが認められ受け取るように、無機質の死んだ概念を捨てて熱を帯びて活動する生きた概念を形成する時、事物の本質が見えてくるし本質の動きを通して自分に向かう愛を差し出しているのがわかる。

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