2009年9月23日水曜日

愛の風呂敷

御父様は家庭を、宝の壷である愛の風呂敷、と表現されている。家庭と言う括りを紐解けば、四位基台からそれぞれの位置の三対象愛、十二様相の愛が煌いている。親子に於いて、夫婦に於いて、兄弟どうし、与えて受ける情愛を回転させればさせるほどに、愛の密度は濃くなり、愛の深みは神秘的で、愛の高みはこの世的次元を超える。この世の中に、妖邪な酔いはいろいろあるけれど、家庭の愛に酔うことこそが本質的な酔いとして、神様もその愛に漬け込まれる程に喜ばれるだろう。愛が愛としての光を放ち、愛が愛としての旋律を奏で、高揚感の中で創造が始まる。生まれ出でたにも拘わらず、落ち着き場所を見出せなければ、放浪生涯の行き着く先、漆黒の闇に埋もれて消え去っていくしかない。家庭こそがこの世に生を受けて留まる故郷であり、立つ足場であり、生きる教理は家庭の中に全て打ち込まれている。家庭という愛の風呂敷の中で、家族の魂を大きく一つにしながら、思いっきり笑い思いっきり泣き、そして時には思いっきり怒る。家庭という愛の風呂敷の中で、穏やかな春に包まれたり夏の生命を弾かせたりする。愛の蔵に収穫したりより大きな魂の成長を身籠っていく。御父様の愛の風呂敷というこの表現が家庭にはピッタリだ。子供の頃、風呂敷包みの弁当を昼食時に開く時の、徐々におかずの匂いが広がる、あの何とも言えない期待感を思い出す。見た目に貧相なのが恥かしくて、隠すようにして箸を運んだけれど、それが申し訳なくて弁当に詰められた母の気持ちは余計に伝わって来た。御父様も風呂敷包みへの期待感が過去の体験にあるはずだ。家庭という愛の風呂敷包み、それは大きな大きな風呂敷で、紐解けばその時その時の愛の様相が、いろんな笑顔として、或いはダイヤや真珠の涙となって溢れるように飛び出してくる。

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