2009年9月18日金曜日

己が罪、抱えきれずに、赦し請う

霊界からのメッセージで一番印象に残っていることは、天国では自分の罪状を首にぶら下げて誰にもわかるように暮らしている、と言う下りがあったと思う。要するに心の中に隠しておける地上世界と違って、誰もが心の内を曝け出して暮らし、隠し様が無いと言う事だろう。隠す事で世渡りをするこの世と違い、全てを白日のもとにあからさまにされながら、曝け出す事で霊界渡りをしていくと言う事なのだろう。隠し通したい醜い行為や内面を他人に知れたときの、あの何とも言えない消えてなくなりたい程の羞恥を一度や二度は経験しているけれど、来る日も来る日も醜いものをえぐり出される事で忌まわしい思いを味わうとしたら、そこは自分に取って天国とは言えないんじゃないかと初めは思えた。家計や会社に於いて一年の収支決算をするように、一生を終えて内的霊的収支決算をしながら、負債は負債として身の置き場の無い思いは変わらないとしても、善行が負債を越すことで何とか居場所は確保できよう。しかし神様の目の届く所や、御父母様の足元に進み出るほどの為に生きた実績と、近付いて罪の詳細をも照らし出す光に耐え得る範囲の負債でなければ、光が辛うじて届く天国の端のほうで小さくなって暮らす以外ないだろう。会社を経営する者なら理解できると思うが、毎日の損得勘定を計算しその数字に一喜一憂しながら会社としての目標や使命を全うすることは出来ない。時には大きな損を覚悟してでも投資すべき時がある。人生を経営するに於いても、一日一膳が悪いとは言わないが、小善に甘んじながら生きることで大きな罪は犯しませんでしたと言う基準を願われているとは思えない。大善を為す者、大きく為に生きた者は、それなりの大きな罪を背負っている場合が多い。大きな罪と言うが、罪の大小など主観的なものであるから、大きな罪意識を覚えている者と言い直したほうがいいかも知れない。自分の罪状を首にかけて暮らす天国生活がどんなものか、地上に於いて算段することはできないにしても、罪を暴かれることで居た堪れぬ痛みを覚える、しかしこの味わう感情が罪を許されている条件であり証しなのだと、その感情を清清しくさえ思える気持ち、委ねる気持ちこそ、罪負債に対する内的霊的な在り様だと思う。首にかけるどころか、罪状を声を張り上げ言い触らしながら許しを請わせて欲しいと進み出るべきなのだ。より白日の下に明らかにされることでしか自分は休まることを知らないと覚悟したなら、罪を数え上げてかぶりを振りながら御父母様に侍るのではなく、願いに応えることを決意し、頭を縦に振って引き受けてこそ御父母様に侍る事が出来る。

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