理想と愛は人間に取って生命よりも貴いものなのにも拘わらず、今日、人間達はこのようなものが、自分のものとして自分に現れると思っていること、これが大きな誤解であり、愛と理想は何処から来るかと言うと対象から来る。(み言より)
理想と愛を願うのであれば、対象存在が必要だと言う事だ。しかし何の関わりも無い周りの人々を自分の対象だと言う事はできない。対象は主体があってこそ対象となりえる。愛の主体となってこそ愛の対象となりえる。相手の事を我が事として感じる力を衝動する力として、為に生きる生を生きる。自らの思考、感情、意志という魂を他者の魂に植付けて、自らの中に他者を感じるものを移入する。自己の為の魂活動を他者の為の魂活動とする時、真の愛は介入される。この力こそ霊界を知覚する能力となり、霊界を活動する能力となる。自己の本性の外に出て、他者の中に自己を感じるまでに徹底して帰依しなければならない。それが他を愛するということだ。自己の本質が他者の本質へと変わるのだ。御父様の心情の中に深く深く沈潜し、そしてひとつになる。御父様の心情圏の中に入り込んでこそ御父様の理想を御父様と共に生きる。自己の内側に内側に向けられる魂の力のベクトルを、御父様に向けなければならない。御父様の魂の力のベクトルは神様に向けられ人類に向けられている。したがって御父様に帰依すればするほど、魂の力のベクトルは他者に向けられる。心と体が闘う堕落様相、自己中心様相は必ず為に生きる本性様相に為り得る。自分は諦めるとしても御父様は諦めない。私に対するその予定は相対的であっても、私に働く神の予定は絶対的なものだ。神様の息子娘としての本性を備えることは約束されている。私は精誠に精誠を重ねて自己の内に向かう魂様相を真の父母の神霊によって一変されることに真摯に寄与しなければならない。為に生きる生こそ我々の人生哲学だ。天宙(家庭)主義を叫びながら為に生きる哲学を我々は生きる。
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